ケプラーとの関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 06:56 UTC 版)
「ティコ・ブラーエ」の記事における「ケプラーとの関係」の解説
プラハにおいて、ティコは助手であったヨハネス・ケプラーと密接な関係をもって研究を行った。ケプラーはコペルニクス体系の正しさに確信を持っていた。そしてティコのモデルは間違っており、それがコペルニクスモデルにおける太陽と地球の位置の単純な「入れ替え」によって得られたと考えていた。二人はともにティコの正確な座標に基づく新しい星表の作成を行った。これは『ルドルフ表』として結実した。また、プラハの宮廷にはニコラウス・ライマース(英語版)(ウルシス)がいた。彼は以前、ティコの体系と同一のモデルである地球・太陽中心の惑星モデルを発展させた人物で、ティコが自身の考えを剽窃したと考えていた。ケプラーはウルシスを非常に高く評価していたが、この時にはティコに雇用されており難しい立ち位置にいた。ケプラーはティコとウルシスの惑星軌道モデルを両方とも支持していなかったが、ウルシスによる告発から雇用者であるティコを守らねばならなかった。1600年、ケプラーは小冊子(tract)『Apologia pro Tychone contra Ursum(ウルシスに対するティコの弁護)』を書きあげた。ケプラーはティコの手法とその正確な観測を強く尊敬し、ティコを科学的天文学再興の基盤をもたらす新たなヒッパルコスであるとみなした。
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