グランプリからの退場
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「フォード・コスワース・DFVエンジン」の記事における「グランプリからの退場」の解説
コスワースもDFVの改良を続け、1983年にはDFVのショートストローク版と、それを基に更に改良を施したDFYを投入した。このエンジンはデトロイトで開催されたアメリカ東GPでティレルのミケーレ・アルボレートのドライブにより勝利を挙げることに成功した。しかし、この優勝がDFVシリーズにとっての155勝目、すなわち最後の優勝となった。 DFV(DFY)は競争力に欠けるようになり、1985年の中盤までにはDFV(DFY)を使用していたチームも全てターボエンジンに切り替えられた。第10戦のオーストリアGPでティレルのマーティン・ブランドルがDFYを使用し、予選不通過に終わったのを最後に、3000ccのDFV(DFY)はF1から姿を消した。 1987年に自然吸気車の排気量上限が3500ccになると、コスワースはDFVの排気量を上げたDFZエンジンでF1に復帰するが、DFZとその改良モデルのDFRでは勝利を挙げることは無かった。 コスワースが再びF1で勝利を収めるのは、新設計のHBエンジンを使用した1989年日本GP(アレッサンドロ・ナニーニ)、チャンピオンを獲得するのはさらに新たなエンジンであるZETEC-Rエンジンを使用した1994年(ミハエル・シューマッハ/ベネトン)のことである。
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グランプリからの退場
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「メルセデス・ベンツ・W125」の記事における「グランプリからの退場」の解説
1938年にはレギュレーションが改定され、グランプリ・レーシングは最大重量を規定するフォーミュラから最大排気量及び最低重量を規定するフォーミュラへ移行した。この新フォーミュラの下ではW125はグランプリに出走することができなくなった。メルセデスはW125に大規模な改造を施す替わりに新設計のメルセデス・ベンツ・W154を開発することを決定し、1938年以降W125が使用されることは無くなった。
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