カノッサの屈辱へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 06:29 UTC 版)
「ハインリヒ4世 (神聖ローマ皇帝)」の記事における「カノッサの屈辱へ」の解説
1066年、婚約者であったベルタと結婚し、教皇の要請で南イタリアのノルマン人と戦う為に軍隊を集めたが、アウクスブルクに到達した時に、既にトスカーナ女伯マチルダの夫ロートリンゲン公ゴドフロワ4世がノルマン人に戦いを仕掛けていた為、進撃を中止した。 1060年代からハインリヒ4世はスラヴ系ルティシア人やザクセンの東の辺境領への遠征を行ったが、直後にシュヴァーベン大公ルドルフとケルンテン公ベルトルトの反乱に直面した。より深刻だったのはバイエルン公オットー・フォン・ノルトハイムとの争いで、オットーは幼年時のハインリヒ4世誘拐事件の首謀者の1人だった。1070年にオットーはハインリヒ4世暗殺計画を企てていると告発され、バイエルン公領を没収された。この為オットーはザクセンで軍を集め、ハインリヒ4世への戦いを開始した。これがザクセン戦争の発端となった。 ハインリヒ4世は父の遺志をついで王権の強化につとめたが、現実には当時のローマ王(ドイツ王)の地位は諸侯と教皇の支持という際どいバランスの上に成り立っていた不安定なものであった。1075年に入るとハインリヒ4世は教皇の意図を無視して叙任権を行使し、自らの意思に沿う司教を任命しはじめた。当然、教皇グレゴリウス7世はこれに抗議した。これが紛糾したことでローマ王とローマ教皇の争い(叙任権闘争)になったが、ザクセン公マグヌスなどの諸侯が叛旗を翻したことで、ハインリヒ4世の旗色が悪くなっていた。 教皇による破門が実施されると、ハインリヒ4世は教皇と直接会談しようと考えた。諸侯に招かれてアウクスブルクへ向かっていたグレゴリウス7世は、ハインリヒ4世の接近を知ると身の危険を感じてカノッサ城に避難したため、ハインリヒ4世は許しを乞うて破門の解除を願った(この時、よく言われるような雪の中で裸足で食事もなしに3日間立っていたという記述は脚色されたものといわれている)。これが「カノッサの屈辱」といわれる事件である。忠誠を誓ったハインリヒ4世に対してグレゴリウス7世は破門を解いた
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