エドワード8世退位問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 03:45 UTC 版)
「スタンリー・ボールドウィン」の記事における「エドワード8世退位問題」の解説
詳細は「エドワード8世の退位」を参照 1936年1月に国王ジョージ5世が崩御し、皇太子エドワードがエドワード8世として即位した。エドワード8世は親独派であり、即位するや外交問題についてボールドウィン政府に圧力を加えるようになった。特に1936年3月のラインラント進駐の際にはドイツと戦争にならぬよう政府高官に影響を及ぼしたといわれる。しかしボールドウィンはこうした王の外交介入を快く思っていなかった。 エドワード8世は即位時すでに40過ぎだったが、妃がいなかった。皇太子時代からアーネスト・シンプソンの夫人のアメリカ人女性ウォリス・シンプソンと付き合っていた。1936年10月27日にシンプソン夫妻の離婚が法的に決まると、エドワード8世は彼女と結婚する意思をボールドウィン首相に伝えた。だが伝統を重んじるボールドウィン以下保守党の政治家たちには、二度も離婚歴があり、さらにヨアヒム・フォン・リッベントロップ駐英ドイツ大使との交際歴もあるアメリカ人女性との結婚には反対の声が根強かった。またボールドウィンは自己主張の強い王エドワード8世より、気の弱い王弟ヨーク公アルバートの方がイギリスの王位に向いていると考えるようになり、エドワード8世に結婚するなら退位するよう迫った。 エドワード8世自身も11月16日にボールドウィン首相を引見した際には退位の意思を伝えていたが、11月25日になって保守党議員の一部が主張していた貴賎相婚(シンプソン夫人を正式な王妃としてではなく、コーンウォール公夫人としてエドワード8世に嫁がせる)を可能とする法整備を要求するようになった。ボールドウィンは「もしそのような方法で結婚をやり遂げようとしておられるなら大きな間違いを犯すことになる」と国王に忠告したという 1931年1月にインド自治に反対して「影の内閣」から離脱して以来、保守党内の反ボールドウィン派となっていたチャーチルがエドワード8世の主張を支持して取り入ろうとしていた。そのためボールドウィンは、チャーチルが中央党を結成し、エドワード8世から組閣の大命を受けようという宮廷陰謀が進行中と疑っていた。しかし結局チャーチルの中央党結成の試みは賛同議員を40名程度しか集められなかったため成功に至らなかった。 12月2日、再び国王に拝謁したボールドウィンは貴賎相婚は非現実的であり、望ましくもない。したがってそれに関する法律を制定する見込みはないとする内閣と自治領政府の意思を国王に報告した。12月5日には自治領政府に対し、王がシンプソン夫人との結婚を断念するか、退位するか、いずれかの態度を取るよう王に正式に勧告するよう要請した。それに従ってオーストラリア、南アフリカ連邦、カナダなどが続々と勧告を行った。この圧力を受けてついにエドワード8世は12月9日に退位文書に署名した。 この一件はこれで収束したが、この件を最後にボールドウィンはほとんど政治指導をしなくなった。
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