イギリス軍艦としての経歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/09/30 02:47 UTC 版)
「サンス・パレイル (戦列艦)」の記事における「イギリス軍艦としての経歴」の解説
サン・パレイユはイギリス海軍に編入されてイギリス軍艦「サンス・パレイル」となり、まず1795年3月からヒュー・シーモア卿が艦長として指揮した。シーモア卿は「栄光の6月1日」の1周年である1795年6月1日に少将に昇進し、艦長は1795年8月にW・ブロウウェルに交替したが、海峡艦隊におけるシーモアの旗艦として使われ続けた。その後、アレクサンダー・フッド提督の艦隊に加わり、ヴィラレーとのもうひとつの海戦(6月22日のグロワ島の海戦)に参加し、フランス軍艦フォルミダブル(Formidable)およびプープル(Peuple)と交戦して戦死者10名と負傷者2名を出した。フォルミダブルは捕獲されてイギリス軍艦ベライル(HMS Belleisle)となった。シーモアは1795年秋に海軍本部委員となって艦を離れた。 サンス・パレイルはフランス沿岸の哨戒を継続したが、その際、フランス製であるということを利用してフランスの旗を掲揚し、私掠船を射程内に誘い込んだ。シーモアは何度も海上勤務に戻り、航海ではサンス・パレイルを旗艦として用いた。1799年1月にはアトキンス艦長が着任したが、8月にはペンローズ艦長に交替した。その後再びシーモアの旗艦として西インド諸島へ航海したが、シーモアは熱病を患って1801年9月11日に死亡した。ペンローズ艦長もまた病気になったため、イギリスに帰国せざるを得なかった。サンス・パレイルの指揮はエシントン艦長が引き継ぎ、リチャード・モンタギュー提督の旗艦として仕えた。1802年9月4日にプリマスに戻り、18ヵ月の期間と35,000ポンドの費用を費やした大修理を行った。それによりサンス・パレイルは監獄船となり、1807年までフランスの捕虜を収容する役目を果たした。1810年10月にはプリマスで廃船となり、1842年10月に解体されるまで32年をその状態で過ごした。
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