アメリカでの物理学の研究
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/17 14:39 UTC 版)
「フリーマン・ダイソン」の記事における「アメリカでの物理学の研究」の解説
1947年に数学からは離れて物理学に興味を持ち、アメリカのコーネル大学物理学科へ留学。この年、相対性理論と量子力学を統合する数式(ダイソン方程式)を発表。同大では師のハンス・ベーテからラムシフトの変形の理論問題を任され、直感的な計算で紙片に書き綴り、同僚らは「僕らも、それに気づいていたらなぁ」とダイソンを羨む。大学には新聞片手に寝坊して顔を出し、机の上に両足を乗せ昼食時まで新聞を広げていたと思うとベーテの部屋にふらりと入ったり愛想は良いが何を考えているか分からない学生と周囲から見られていた。 1948年、旅行で一人バスに揺られている間、過程は違えどジュリアン・シュウィンガーとリチャード・ファインマンが同じ答えを導きだそうとしている事に気づく。何でも方程式にしたい性質のダイソンはファインマン・ダイアグラムを数式化して他の物理学者にも分かりやすいように組み立てる。数式を用いず図形で手短に且つかなり正確な答えが導き出されるファインマン・ダイアグラムを広めるべく尽力、あまり良い顔をしなかったロバート・オッペンハイマーを口説いてファインマン・ダイアグラムの有用さを認めさせた。後「朝永=シュウィンガー=そしてファインマンの放射理論」論文発表。 1951年からコーネル大学教授、1953年からプリンストン高級研究所教授として勤務。1952年王立協会フェロー選出。1957年にアメリカに帰化。国防省、NASA、軍備管理軍縮局などの嘱託を務める。1960年にダイソン球(ダイソン・スフィア)の概念を発表。 何度もノーベル賞有力候補として名が挙がるも受賞には至らなかった。本人はあまり頓着しておらず、賞レースには消極的で無関心な事を明かしている。
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