りま丸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/27 07:00 UTC 版)
りま丸(りままる)は、日本郵船が1920年に竣工させた貨物船。太平洋戦争中、日本陸軍により軍隊輸送船として徴用された。1944年2月、アメリカ海軍潜水艦によって東シナ海で撃沈され、1隻の日本船として当時史上最多の2500人を超える戦死者を出した。
注釈
- ^ 乗船部隊の詳細は、独立混成第19旅団関係が独立歩兵97-100大隊、歩兵砲隊、旅団工兵隊および通信隊。そのほか第108・第109教育飛行連隊、第4航空軍関係者、船舶工兵第3連隊、病院船第60班、軍属便乗者[12]。
- ^ 加入輸送船は1番船から14番船まで順に「りま丸」「東洋丸」「打出丸」「第五共栄丸」「白根山丸」「大敬丸」「南嶺丸」「第三東洋丸」「鎮海丸」「藤川丸」「東洋丸」「てしお丸」「旺洋丸」「芙蓉丸」。護衛艦は水雷艇「鷺」および第38号哨戒艇[15]。
- ^ a b 駒宮(1987年)と同書を参考資料に挙げる大内(2010年)は、「りま丸」の被雷時刻を午後10時20分頃、「白根山丸」の被雷時刻を午後4時頃と推定している[13][14]。
- ^ 大内(2010年)は商船1隻で2000人以上の戦死者を出した最初の事例とも解説しているが[20]、同書掲載の表によると1943年4月に2176人が死亡した「鎌倉丸」(日本郵船:17256総トン)と同年10月に2089人が死亡した「大日丸」(板谷商船:5813総トン)が先に犠牲者数2000人を超えている[21]。
出典
- ^ “なつかしい日本の汽船”. 長澤文雄. 2023年3月22日閲覧。
- ^ 運輸通信省海運総局(編) 『昭和十四年版 日本汽船名簿(内地・朝鮮・台湾・関東州)』 運輸通信省海運総局、1939年、内地在籍船の部159頁、アジア歴史資料センター(JACAR) Ref.C08050073300、画像24枚目。
- ^ Lima_Maru_Class
- ^ 日本郵船(1971年)、510頁。
- ^ 吉本球磨機関長 「横浜港内罹災調査報告」『大正十二年 公文備考 変災災害付属』第8巻、JACAR Ref.C08051006800、画像2枚目。
- ^ a b 日本郵船(1971年)、512頁。
- ^ 山上(1965年)、354頁。
- ^ a b 山上(1965年)、356頁。
- ^ 陸軍運輸部残務整理部 『船舶輸送間に於ける遭難部隊資料(陸軍)』 JACAR Ref.C08050112700、画像47枚目。
- ^ 山上(1965年)、357-358頁。
- ^ 日本郵船(1971年)、511頁。
- ^ 陸軍運輸部残務整理部 『船舶輸送間に於ける遭難部隊資料(陸軍)』 JACAR Ref.C08050112500、画像47枚目。
- ^ a b c 駒宮真七郎 『戦時輸送船団史』 出版協同社、1987年、138頁。
- ^ a b 大内(2010年)、158頁。
- ^ 『第三八号哨戒艇戦闘詳報』、画像2-3枚目。
- ^ 『第三八号哨戒艇戦闘詳報』、画像13枚目。
- ^ a b Cressman, Robert, The Official Chronology of the U.S. Navy in World War II, Annapolis MD: Naval Institute Press, 1999, p. 442.
- ^ 『第三八号哨戒艇戦闘詳報』、画像3、6枚目。
- ^ 『第三八号哨戒艇戦闘詳報』、画像7枚目。
- ^ 大内(2010年)、156-157頁。
- ^ 大内(2010年)、158-159頁。
- ^ 大内(2010年)、64頁。
- ^ 大内(2010年)、159-160頁。
- ^ 『第三八号哨戒艇戦闘詳報』、画像4枚目。
- ^ 徴用船「りま丸」遺骨調査へ/2000人死亡 多数漂着の馬毛島/戦時の民間船犠牲「忘れられている」『朝日新聞』夕刊2018年10月23日(社会面)2018年10月24日閲覧。
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