秩父丸
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秩父丸(ちちぶまる)は、日本郵船が保有した貨客船である。1939年(昭和14年)1月に鎌倉丸(かまくらまる)と改名された。船名由来は秩父神社。
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- ^ 郵船OB氷川丸研究会 竹野弘之 氷川丸とその時代26頁 海文堂出版2008
- ^ 三井物産・造船部(後の三井造船)は1926年、B&W社とライセンス契約し1928年にはB&W型国産1号機納入済みではあった:藤田秀雄他 日本の艦艇 ・商船の内燃機関技術史(第2次世界大戦終結まで)-商船用内燃機関編(その1)-日本舶用機関学会誌30巻12号841頁1995
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- ^ a b c d 『日本郵船戦時戦史 上』、274頁。
- ^ #写真週報154号p.2「野村駐米大使鹿島立つ 對日感情日増に惡化するアメリカへ帝國の眞意と一億國民の堅い覺悟のほどを傳へ日米國交改善の大任を帯びた駐米特命全権大使野村吉三郎大将は一月二十三日郵船鎌倉丸で任地アメリカへ向け鹿島立った。寫眞は東京埠頭で意義深い握手を交す野村大使とグルー駐米大使」
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- ^ a b 氷川丸とその時代188-189頁「鎌倉丸最後のサンフランシスコ航路と演芸会」
- ^ 郵船OB氷川丸研究会(編)『氷川丸とその時代』海文堂出版、2008年、ISBN 978-4-303-63445-2、95ページ
- ^ 野間(2008年)、245頁。
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- ^ a b c 大内(2004年)、158-159頁。
- ^ 大内(2004年)、162頁。
- ^ #遺骨引取(1)p.6「外務大臣ノ回電ニ依リ遺骨ハ夫々 故海軍大尉 中島兼四/故海軍大尉 松尾敬宇/故海軍一等兵曹 大森猛/故海軍二等兵曹 都竹正雄 ナル旨指定アリタルニ付鎌倉丸船員ノ謹製セル木箱四個ニ納メ公使ノ謹書セル官氏名票ヲ貼リ一室ニ奉安セリ」
- ^ 「週報第315号(週報十月二十一日號) p.2」 アジア歴史資料センター Ref.A06031047700 「十月九日(金)▽シドニー強襲に散華した海軍特別攻撃隊の四英靈を載せて第二次日英交換船鎌倉丸かへる」
- ^ a b c d 氷川丸とその時代284頁「2 鎌倉丸の遭難」
- ^ 日本特設艦船物語69-70頁「太平洋戦争中の日本の商船空母」
- ^ 日本特設艦船物語80-81頁「◇鎌倉丸型(参考)」
- ^ #S1804佐鎮日誌(6)p.51「十九(天候略)三.鎌倉丸(鷹島護衛)佐世保發一六〇〇」
- ^ #S1712佐世保防備(6)p.6「四 一九(一七〇〇)鷹島艇長(宛略)鎌倉丸(船客二二三四名兵員約五〇〇名積荷約三〇〇〇屯)ヲ護衛シ十九日一六〇〇佐世保發速力十六節航路ヲ人陵接岸航路(女島ヨリ東汀島南方迂廻二十二日〇七〇〇高雄着ノ豫定正午位置二十日東經一二五度〇〇分北緯三〇度四〇分二十一日東經一二〇度四〇分北緯二六度二〇分」
- ^ #S1804佐鎮日誌(4)p.55「二十二 鷹島艇長(宛略)鎌倉丸ヲ護衛シ二十二日〇九三〇高雄着」
- ^ #S1804佐鎮日誌(6)p.53「二十二(天候略)二.鎌倉丸高雄着〇九三〇」
- ^ #S1804佐鎮日誌(5)p.6「二十三日一五三八第一海上護衛隊参謀長(宛略)鷹島佐世保歸航ノ途次當隊臨時N船團二十四日發門司行照川丸及田子ノ浦丸一〇節)護衛ニ協力セシメラレ度」
- ^ #S1804佐鎮日誌(6)p.53「二十四(天候略)第一海上護衛隊参謀長協議ニヨリ鷹島ヲシテ第一海上護衛隊臨時N船團ヲ護衛帰投セシム」
- ^ 高松宮日記6巻219頁「○鎌倉丸、二十七日「バリックパパン」入港ノ筈、未ダ入港セズ。「マニラ」発以後二十三日マデ護衛セルモ、ソノ後消息不明トナル。二二〇〇名乗船。」
- ^ a b 『日本郵船戦時戦史 上』、275-276頁。
- ^ a b #三菱、20話13頁「「鎌倉丸万歳」そして巨体はすーっと消えた」
- ^ Robert J. Cressman, The Official Chronology of the US Navy in World War II, Events of the Year 1944, Annapolis: MD, Naval Institute Press, 1999.
- ^ 氷川丸とその時代285頁
- ^ 高松宮日記6巻221-222頁「五月二日(日)晴(略)鎌倉丸〇二〇〇頃雷撃サレ沈没、漂流中ノ約十名敵潜水艦ニ捕ヘラル」
- ^ a b 高松宮日記6巻223頁「木曽丸(二-一五三七)一、鎌倉丸遭難状況 二十八日〇二五〇雷撃(二)。約五分後沈没。敵潜水艦浮上砲撃、機銃掃射ヲナシ、漂流者約十名ヲ収容、潜没セリ(中略)三.他ニカッター一隻アルモ約100、通船一隻約30、筏若干漂流中(以下略)」
- ^ #S1803九五四空(4)p.35「昭和18年4月28日|鎌倉丸捜索竝ニ対潜哨戒(略)鎌倉丸発見セズ」
- ^ #S1805九五四空(1)p.5「昭和18年5月2日(略)0920|二番機「マヌカン」島(地点略)ニ鎌倉丸ボート一、人員約百名發見」
- ^ a b 氷川丸とその時代287-288頁
- ^ 大内(2004年)、339頁。
- ^ 高松宮日記6巻228-229頁「五月五日(水)晴、風」
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