袁崇煥 (中華人民共和国のテレビドラマ)
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作品概要
天啓2年(1622年)、袁崇煥は、文官から武官に転じて、遼東での後金軍との熾烈な戦いに身を投じる。師の孫承宗や、多くの仲間の支えを得て、袁崇煥は数多の困難を乗り越え、勇敢無敵の関寧鉄騎と、山海関・寧遠・錦州を結ぶ強固な国境防衛線を構築することに成功。そして、天啓6年(1626年)の寧遠の戦い、天啓7年(1627年)の寧錦の戦いで後金軍を大いに打ち破り、袁崇煥をはじめ関寧軍は大いに名声を得、忠義の士として逞しく成長を遂げ、互いに絆を深めていった。また袁崇煥は、関外での厳しい日々を乗り越えていくなかで、恋人の孫霊汐との密かな愛も膨らませていた。
寧錦での大勝からほどなく、都・北京では天啓帝が崩御。弟の信王朱由検(崇禎帝)が跡を継いだ。崇禎帝は、絶大なる権力を握る宦官・魏忠賢とその一派を朝廷から排除し、親政を開始。寧錦での大勝利の後、暫く在野に在った袁崇煥は、崇禎帝の召喚に応じ、故郷の東莞から北京に赴く。崇禎帝の絶大なる信頼と期待を受けた袁崇煥は、辺境の全軍を束ねる明朝随一の大将軍となり、後金を討ち5年で遼の地を平定することを強く宣誓する。しかし、辺境と京師の間の連携は上手くいかず、袁崇煥の権勢を妬んだ奸臣が彼を陥れようと策を巡らし続ける。袁崇煥は、苦難にもめげず、「遼の地を平定し国に安寧をもたらす」という所期の目標に向かって突き進むが、汚職腐敗の甚だしい皮島の将軍・毛文龍をみだりに斬首したことで、次第に歯車が狂い始める。
朝廷の大臣である・梁廷棟は、ライバルの袁崇煥をなんとしてでも葬り去りたいと考え、影で悪事や陰謀を重ね、ついに崇禎帝も袁崇煥への猜疑心を抱き出す。崇禎2年(1629年)、後金の10万の大軍が、袁崇煥の築いた国境防衛線の隙を突いて北京城外にまで迫った。袁崇煥率いる関寧軍は、激戦の末になんとか後金の大軍を食い止めるが、多くの犠牲を払うことになった。一方で、崇禎帝の袁崇煥への猜疑心・怒りは、奸臣たちの謀略によって益々深まっていき、ついに崇禎帝は袁崇煥を再召喚。平台での対質の末に、袁崇煥は冤罪を被って牢獄へ監禁される身となった。
袁崇煥が牢に収監された後、後金軍は再び京師を攻めたが、梁廷棟はこれをよく防ぎ、その功で兵部尚書となった。清廉潔白な忠臣・袁崇煥を何としてでも守りたかった内閣首輔の銭龍錫は、決死の上奏を行い、袁崇煥を陥れた大臣・梁廷棟を弾劾するも、あえなく失敗し免職に追い込まれた。私利私欲に溺れる悪辣陰険な梁廷棟は、袁崇煥・銭龍錫といった忠臣を虐げ、ついに内閣首輔の地位を手にした。もはや、朝廷に忠臣は誰一人として残っていない。崇禎帝は、事態が深刻極まって初めて自身の誤りに気付いたが、すでに「覆水盆に返らず」であり、彼が袁崇煥を救うことは不可能だった。崇禎3年(1630年)8月、袁崇煥は崇禎帝の命によって処刑された。享年47。
袁崇煥の最愛の恋人・孫霊汐は、城壁の上から飛び降り自殺し、愛する袁崇煥の後を追った。袁崇煥の亡き後、明朝の命運は尽き果て、崇禎帝17年(1644年)、李自成の反乱軍によって北京は制圧され、ついに明朝は滅びた。袁崇煥に関しては、死してその功罪が喧喧囂囂と議論されているが、彼が「愛国の指導者」であったということは、疑いようのない事実である。
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