徐晃
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人物
徐晃は武功を挙げても奢る素振りは見せず、常に「昔の人はよく明君に出会えぬことを嘆いたものだが、わしは幸運にもその明君にお会いすることができた。だから、功績を挙げてこの幸運に答えなければならぬ。個人の功名など何程のこともない」と言い、最後まで私的な交際をしなかった。
用兵では間者を使った情報収集を重視し、常に敗戦時の対策を念頭に置いて戦いを進めるなど堅実であったが、その一方で好機と見るや、配下に食事の暇も与えないほどの猛烈な追撃を行うこともあった。
三国志演義
小説『三国志演義』では、大斧を愛用する武将として登場する。毛宗崗は「張遼と徐晃は皆大将の才があり、故に関公(関羽)と親友であった」としている。楊奉配下の猛将であったが、曹操の計略と満寵の説得により楊奉から離反し、曹操配下の武将となる。白馬・延津の戦いでは、袁紹軍の武将である顔良・文醜の武勇に圧倒されるが、関羽に救われている。漢中の戦いでは、副将の王平と意見が合わずに衝突し、結果として王平が劉備軍に寝返ったことに激怒する(王平が徐晃の副将という話は創作)など、少々短気な面も見せるが、荊州の戦いでは関平と打ちあって三、四合で敗走させ、関羽と一騎討ちに及んでいる。この時、徐晃は「関羽殿には昔から随分色々と教えてもらっています、恩義は忘れたことがありません。しかし私(わたくし)の恩義と公(おおやけ)の主君の命とは別でござる」といい、八十余合も打ちあった末、怪我をしていたとはいえ関羽を一騎討ちで退けている(演義第七十六回『徐公明大いにベン水に戦い、関雲長麦城に敗走す』)。最期は、正史三国志で病死した翌年、かつて蜀臣だった孟達が再び帰参する動きを見せたために、司馬懿がその討伐に当たった時、偶々遭遇して同行したが、緒戦で孟達が放った矢が額を貫き、大量出血で絶命するという設定になっている。
徐晃に由来する故事成語
長駆直入 () 前述の曹操『労徐晃令』に基づく故事。遠方から一気に突っ込むこと。- 中国では「長驅直入徐公明,一箭雙雕長孫晟」(長駆斬り込む徐公明、一矢で二羽落とす長孫晟)ということわざがある。長孫晟は南北朝時代の武将。(中国の辞書『辞海』による)
- ^ 「武帝紀」によると建安4年(199年)夏4月の出来事。「于禁伝」によると、史渙と共に射犬の眭固を攻撃したのは曹仁と于禁。「楽進伝」によると楽進も従軍。
- ^ 「武帝紀」建安4年(199年)12月にある、劉備が沛で曹操に反乱を起こした事件。「武帝紀」によると建安5年(200年)春正月。「楽進伝」によると楽進も従軍。
- ^ 「武帝紀」によると建安5年(200年)2月の出来事で、劉備の降将関羽と呂布の降将張遼が先鋒を務めた。
- ^ 「武帝紀」によると建安5年(200年)2月の出来事。「荀攸伝」によると、曹操が荀攸の進言に従い、計略により文醜の軍を混乱させていた。
- ^ 本来の文字は「氵」+「隱」
- ^ 「武帝紀」によると、建安5年(200年)8月から冬12月の間に起きた戦い。「荀攸伝」によると、徐晃の抜擢は荀攸の進言によるもの。
- ^ 「夏侯淵伝」
- ^ 「武帝紀」によると、建安15年(210年)秋7月の出来事。朱霊が同行。
- ^ 「趙儼伝」によると曹仁の軍事に参画するため趙儼が同行。
- ^ 「武帝紀」によると建安24年(219年)8月の出来事。
- ^ 「董昭伝」によると、この時、曹操は孫権に命じて関羽の背後を脅かす計画を立てていたが、董昭の進言により、その計画を城中だけでなく関羽の陣営にもわざと漏らすことにしたため、徐晃に命令を出し、両方の陣地に孫権からの手紙を射込ませたという。
- ^ 徐晃と関羽とは旧知であったため、決戦前に言葉を交わしたという(蜀志「関羽伝」が引く『蜀記』)
- ^ 「曹仁伝」では、曹仁はこの功績で車騎将軍から大将軍に昇進したとあり、「文帝紀」では曹仁の大将軍の任命時期は黄初2年(221年)夏4月。
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