張籌 張籌の概要

張籌

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 15:45 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動

生涯

張翼の子として生まれた。末に江浙省試で首席の成績を挙げた。1371年洪武4年)[1]詹同の推薦により、翰林院応奉に任じられ、礼部主事に転じた。洪武帝の命を受けて礼部尚書の陶凱とともに以来の藩王の事跡を『帰鑑録』に編纂した。1373年(洪武6年)、広東参政となった[1]1376年(洪武9年)、礼部員外郎から礼部尚書に進み、学士の宋濂とともに諸王妃の喪服の制を定めた。張籌は歴代の礼楽儀制の沿革を暗記していたが、附会が多かった。社稷を合わせて一壇とし、句龍の祭祀を廃止し、神の配偶者の位を剥奪し、洪武帝の父の朱五四を合祀し、社稷と郊廟の祭祀を上祀に並列したので、識者に非難された。ほどなく湖広参政として出向した。1377年(洪武10年)、事件に連座して労役刑を科された。1379年(洪武12年)4月、礼部員外郎として起用された。9月、再び礼部尚書となった[2]。ほどなく事件のため免官された。

参考文献

  • 明史』巻136 列伝第24

  1. ^ a b 兪汝楫『礼部志稿』巻51
  2. ^ 談遷『国榷』巻6


「張籌」の続きの解説一覧



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  張籌のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「張籌」の関連用語

1
6% |||||

2
2% |||||

張籌のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



張籌のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの張籌 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS