小泉劇場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/10 14:38 UTC 版)
その他の選挙戦術
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- 郵政民営化法案に反対した自民党議員の中には、「郵政民営化には賛成であるが、議論が尽くされておらず、国民の理解が得られないと判断し、継続審議が必要だ」、「この郵政民営化は、国民の貴重な財産である郵貯や簡保が外資に奪われる」、「この法案では民営化された会社による民業圧迫につながる」と主張し、反対した議員も存在した。しかし、小泉のメディアにおける発言が大きく注目されたことにより、「反対派はすべて郵政族であり、郵政民営化を頭ごなしに反対する勢力」という小泉の意見を国民に印象づけた。
- 小泉は政治家を志してから一貫して福田赳夫元首相を師と仰いでいた。そのため、角福戦争を繰り広げ、福田の政敵であった田中角栄元首相の流れをくむ平成研究会(旧橋本派)を一掃しようという狙いもあったとされる。
- 小泉は、1990年代前半の衆院選における小選挙区制導入議論において、自民党の公認権限によって党内有力派閥である経世会(竹下派や小渕派)に生殺与奪の権を握られるとして小選挙区制導入に反対していた。しかし、2005年の衆院選では小泉は小選挙区制の要素を最も活用して大勝に導いた。
- 自由民主党広報本部長代理の世耕弘成によると、自民党は選挙戦で以下のような戦略を行ったと述べている。
- 衆議院解散後の小泉首相の記者会見に関する報道特別番組は瞬間視聴率は20%を超えたとされ、自民党は選挙CMは当初はこの首相演説の映像を用いようとしたが内閣の職務で行われた性格から断念し、代わりに首相演説時と同じネクタイやカーテンを用いて小泉首相が立って国民に郵政民営化の必要を語りかけるCMを作成した[5]。
- 自民党幹事長の記者会見において背景に自民党のスローガン「改革を止めるな」等のロゴを加えたインタビューボードを設置し、自民党で新しく決まる公認候補の発表の際に必ずテレビ番組のニュースでその模様が流れることを活用した[6]。
- 選挙期間の最終日に自民党は集票力のある小泉首相や安倍晋三幹事長代理を原則として移動に時間のかからない首都圏でできるだけ多くの接戦選挙区で遊説することとした[7]。
- 自民党は投票日に全国紙2紙で見開き全面広告、全国紙2紙に1面広告、スポーツ新聞5紙に小泉純一郎首相を前面に出して「私は、問いたい。郵政民営化に賛成か、反対か。改革の前身か、後退か。」というメッセージを出した政党としての新聞広告を掲載した[8]。
注釈
- ^ 選挙プランナーの三浦博史はテレビで保守分裂選挙ばかりが注目されていたとして、「『野田聖子 VS 佐藤ゆかり』の岐阜1区の民主党候補(注:柴橋正直)を覚えている人は皆無に近いだろう」と述べている。
- ^ a b この時点ではまだ自民党所属。
- ^ 2000年以降は小選挙区での得票率が10%未満の重複候補は復活当選できないが、過去の衆院選小選挙区では自民党候補の得票率が10%を下回ったことはない。小選挙区比例代表並立制が導入された1996年以降の衆院選小選挙区における自民党候補の最低得票率は1996年衆院選の岩手4区における井形厚一(1位当選候補は小沢一郎新進党代表)の得票率10.39%である。
- ^ 青山は小選挙区での立候補を辞退し、比例単独で立候補をするも落選。
- ^ 当年12月に比例四国ブロックで繰り上げ当選。この経緯については高井の項を参照。
- ^ a b 民主党候補が立候補しなかったため、次に獲得票が多かった野党候補を記載。
出典
- ^ 齋藤英之 saih.pdf ポピュリズムと現代日本政治
- ^ 三浦博史 2010, pp. 106–107.
- ^ “「森元首相、政局を語る 首相はノーサイド精神を」”. 産経新聞. (2005年9月13日)
- ^ 金光翔 「<佐藤優現象>批判」 (『インパクション』第160号
- ^ 世耕弘成 2005, p. 77・79.
- ^ 世耕弘成 2005, p. 84.
- ^ 世耕弘成 2005, p. 110.
- ^ 世耕弘成 2005, p. 108.
- ^ 小栗泉 2009, pp. 32–34.
- ^ 鈴木哲夫 2007, p. 246.
- ^ “総選挙「おもしろかった」52% 「参考に」テレビ51% 朝日新聞社世論調査”. 朝日新聞. (2005年10月25日)
- ^ 中西輝政「宰相小泉が国民に与えた生贄」『文藝春秋』2005年10月号、文藝春秋。
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