プロイセン貴族院
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/02 13:25 UTC 版)
貴族院議長
歴代のプロイセン貴族院議長(Präsidenten des Preußischen Herrenhauses)は以下の通り。
- ハンス・ハインリヒ10世・フォン・ホッホベルク侯爵(1854年)
- アドルフ・ツー・ホーエンローエ=インゲルフィンゲン侯子(1856年-1862年)
- エバーハルト・ツー・シュトルベルク=ヴェルニゲローデ伯爵(1862年-1872年)
- アドルフ・ツー・アルニム=ボイッツェンブルク伯爵
- ヴィクトル1世・フォン・ラティボル公爵(1877年-1893年)
- ヴィルヘルム・アドルフ・ツー・ヴィート侯爵(1897年–1904年)
- エッツァルト・ツー・インハウゼン=クニプハウゼン侯爵(1904年)
- オットー・フォン・マントイフェル男爵(1908年-1911年)
- ヴィルヘルム・フォン・ヴェーデル=ピースドルフ(1912年-1915年)
- ディートロフ・フォン・アルニム=ボイッツェンブルク伯爵(1916年-1918年)
廃止
第一次世界大戦末のドイツ革命により、ドイツやプロイセンは共和政となった。1918年11月14日には中央政府と同様にプロイセン政府にも社民党と独立社民党が3人ずつ閣僚を出し合う仮政府「プロイセン人民代表評議会(Volksbeauftragten)」[注釈 3]と執行機関のプロイセン革命内閣が設置された[9]。プロイセン人民代表評議会は翌11月15日にも貴族院の廃止と衆議院の解散を宣言した[9]。
その後、プロイセン憲法制定議会の選挙と召集が行われ、1920年11月30日にプロイセン憲法が制定された。同憲法により民選のプロイセン州議会が設置されるとともに、州議会に対する上院として、県(Provinz)代表で構成されるプロイセン州参議院が設置された。ただしこの州参議院は貴族院と違って立法権を有しておらず、州議会に対して異議を申し立てることができるのみだった(州議会の三分の二の賛成があるとこの異議は拒否される)[10]。
脚注
注釈
- ^ a b アーレンベルク家、ベントハイム=シュタインフルト家、クロイ家、イーゼルブルク家、ザルム=ホルストマール家、ザルム=ザルム家、ザイン=ヴィトゲンシュタイン=ベルレブルク家、ザイン=ヴィトゲンシュタイン=ホーエンシュタイン家、ゾルムス=ホーエンゾルムス=リッヒ家、ゾルムス=レーデルハイム=アッセンハイム家、シュトルベルク=ヴェルニゲローデ家、ヴィート家など
- ^ ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン家やホーエンツォレルン=ヘッヒンゲン家
- ^ プロイセン人民代表評議会はパウル・ヒルシュ、オイゲン・エルンスト、オットー・ブラウン、ハインリヒ・シュトレーベル、アドルフ・ホフマン、クルト・ローゼンフェルトで構成された[9]。
出典
- ^ 前田光夫 1980, p. 51.
- ^ a b 前田光夫 1980, p. 54.
- ^ 前田光夫 1980, p. 55-56.
- ^ Hartwin Spenkuch: Das Preußische Herrenhaus. Droste-Verlag, Düsseldorf 1998, S. 174
- ^ スタインバーグ 2013, p. 184.
- ^ スタインバーグ 2013, p. 185.
- ^ a b c d 前田光夫 1980, p. 56.
- ^ a b 前田光夫 1980, p. 57.
- ^ a b c Andreas Gonschior. “Der Freistaat Preußen Ereignisse 1918–1933”. Wahlen in der Weimarer Republik Impressum. 2018年7月22日閲覧。
- ^ Andreas Gonschior. “Der Freistaat Preußen Überblick”. Wahlen in der Weimarer Republik Impressum. 2018年7月22日閲覧。
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