ファトフ・ムハンマド
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 03:25 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動生涯
ファトフ・ムハンマドはコーラールに生まれ、のちにデーヴァナハッリに移住した[1]。 彼が生まれたのは南インド各地を転じて家業とする傭兵集団であり、その隊長である彼の家系はアラビア半島のクライシュ族にさかのぼるといわれる[2]。
さて、17世紀末のデカン戦争の際、ファトフ・ムハンマドはムガル帝国の側で参加し、南インドのシェンジに逃げ込んだマラーター王国の攻撃にあたった(シェンジ包囲戦)。このとき、彼はロケット弾の部隊を50人ほど保持しており、攻城戦の際に使用した。
ファトフ・ムハンマドは帝国側に帰すると同時にカルナータカ太守ズルフィカール・ハーンに仕え、ジャーギール(封土)まで与えられた[1]。だが、サアーダトゥッラー・ハーンが太守のときに離れ、マイソール王国に仕える身となり、同国の将軍として迎えられた。
ファトフ・ムハンマドの没年は定かではない。ただ、1725年9月9日以前に戦死している[1]。
息子
ファトフ・ムハンマドには6人の息子がいた[2][3]。なお、彼らの生没年には諸説あるため、下記の順が年齢順とは限らない。
- ワーリー・サーヒブ(父ともに戦死)
- アリー・サーヒブ
- ビヒルリー・サーヒブ
- シャーバーズ・アリー(イスマーイール・サーヒブ)
- ワーリー・ムハンマド(夭折)
- ハイダル・アリー
関連項目
- 1 ファトフ・ムハンマドとは
- 2 ファトフ・ムハンマドの概要
- ファトフ・ムハンマドのページへのリンク