ビーチャム=シャープの悲劇 裁判

ビーチャム=シャープの悲劇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/05/25 02:38 UTC 版)

裁判

ビーチャムは起訴され、裁判は1826年3月8日に始まった[18]。無罪を主張したが、裁判の間に証言することはなかった[18]。ロー大尉が呼ばれ、ビーチャムがシャープを殺す恐れについてパトリック・ダービーに話した内容を繰り返した。さらにビーチャムは殺人の後で赤旗を振りながら家に戻ってきており、それは「勝利を得た」と宣言していたものだと証言した。また殺人に関するビーチャムの手紙を証拠として提出した。この手紙では、ビーチャムが無罪を主張していたが、ローに対してビーチャムの敵が彼を罠にはめようとしており、彼のために証言することを求めると告げていた。この手紙はローが証人として呼ばれた場合に言及する幾つかのポイントを示しており、その幾らかは真実だが、幾らかそうではなかった[21]

ジェレボーム・O・ビーチャム、殺人罪で有罪となった

エリザ・シャープは、殺人者の声がビーチャムのものだという主張を繰り返した。殺人の夜にビーチャムを泊めた刑務所長ジョエル・スコットは、その夜ビーチャムが外出する音を聞いており、夜遅くに戻って来たと証言した。また翌朝殺人のことを告げられると、異常に質問をしてきたとも証言した。最も多い証言はダービーのものであり、1824年にビーチャムと会った時のことから話した。ダービーに拠れば、シャープはビーチャムとアンナが彼を放っておいてくれるならば、2人に1,000ドル、奴隷の少女1人、200エーカー (0.81 km2) の土地を提供すると、ビーチャムが言っていた。シャープは後にその申し出を守らなかった[22]

殺人者はジョン・A・コビントンを名乗ったという証言が幾つかあった。かれらは、シャープもビーチャムもジョン・W・コビントンと知り合いであり、ビーチャムはジョン・A・コビントンと言い間違えることが多かったと語った。別の証人は、ビーチャムがシャープに対して行った脅しについて聞いたと証言した[23]

ビーチャムの弁護団は、パトリック・ダービーの旧裁判所派との関わりを強調し、殺人は政治的な動機によるということで、その信用を損なおうとした。ビーチャムとシャープの間には敵対関係が無かったと知っている証人も出し、またダービーとビーチャムの1824年の会合が本当にあったことか疑問を提出した[24]

最終弁論のとき、被告の弁護人ジョン・ポープはダービーを信頼できないものとしようとした。ダービーはポープの共同弁護人を杖で襲うという反応をした[25]。裁判は13日間続き、殺人の凶器など物的証拠が何も無いにも拘わらず、陪審員は5月19日に僅か1時間協議しただけで、有罪の判断を回答した[18][18][26]。ビーチャムは1826年6月16日に絞首で処刑すると宣告された[27]

この裁判の間、アンナ・ビーチャムはジョン・ウォーリングに夫のために助けてくれるよう訴えた。ジョン・ローが偽証したとして注目を集めさせるようにし、夫のために証言した。どちらの訴えも否定された。5月20日、アンナは2人の治安判事から殺人幇助の容疑で尋問されたが、証拠不十分で無罪とされた[28]。アンナは請願してビーチャムと同じ独房に留まる事を認められた[9]

ポープが判決を覆す要請を行ったが、それも否定された。しかし判事は、ビーチャムがその行動について正当化する文書を作成するために、7月7日まで死刑執行を猶予することは認めた[29]。ビーチャムはその文書の中で、アンナの名誉を守るためにシャープを殺したと記した[5]。ビーチャムはその処刑の前に文書が出版されることを期待していたが、それは名誉毀損の告発を含んでおり、検察の証人が偽証を行い、彼を有罪にするために賄賂を贈っていたというものだったので、出版が遅らされた[5]


  1. ^ Cooke, pp. 126–127
  2. ^ Cooke, pp. 127–128
  3. ^ Cooke, pp.128–129
  4. ^ Cooke, p. 129
  5. ^ a b c d e f g h Whited, p. 404
  6. ^ Cooke, pp. 129–130
  7. ^ Cooke, pp. 130–131, 134
  8. ^ a b Cooke, p. 136
  9. ^ a b c d e f Kleber, p. 63
  10. ^ O'Malley, p. 43
  11. ^ a b c d e f O'Malley, p. 44
  12. ^ a b Cooke, p. 137
  13. ^ a b Cooke, p. 138
  14. ^ a b c L. Johnson, p. 46
  15. ^ L. Johnson, p. 45
  16. ^ L. Johnson, pp. 47–48
  17. ^ O'Malley, p. 45
  18. ^ a b c d e f g h Cooke, p. 144
  19. ^ Bruce, pp. 15–16
  20. ^ Bruce, p. 16
  21. ^ Bruce, pp. 21–25
  22. ^ Bruce, pp. 21–24
  23. ^ Bruce, pp. 22–24
  24. ^ Bruce, pp. 22–23
  25. ^ L. Johnson, p. 48
  26. ^ a b c d O'Malley, p. 47
  27. ^ a b L. Johnson, p. 49
  28. ^ Cooke, pp. 144–145
  29. ^ a b Cooke, p. 145
  30. ^ a b c d e Kleber, p. 64
  31. ^ Bruce, p. 8
  32. ^ St. Clair, p. 307
  33. ^ L. Johnson, p. 54
  34. ^ Cooke, p. 146
  35. ^ a b c d Johnson, "New Light of Beauchamp's Confession
  36. ^ a b c d Bruce, "The Kentucky Tragedy and the Transformation of Politics in the Early American Republic"
  37. ^ a b Cooke, p. 147
  38. ^ Whited, pp. 404–405





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