グリム童話 取材源

グリム童話

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/10 10:04 UTC 版)

取材源

グリムにメルヒェンを提供した人物のひとりドロテーア・フィーマンドイツ語版英語版。生粋のヘッセン人の農婦だと思われていたが、のちにフランスから逃れてきたユグノーの家の出だったことが明らかになった。

『グリム童話集』は長い間、グリム兄弟がドイツ中を歩き回って、古くから語り継がれてきた物語をドイツ生粋の素朴な民衆たちから直接聞き集め、それを口伝えのかたちのまま収録して出版されたものだと一般には考えられてきた[38][39]。このように考えられてきたのは、一つにはグリム兄弟自身が童話集の序文でそのように宣言したためであったが[40][41]、現実には「口伝えのかたちのまま」ではなく、兄弟の手によって少なからず手が加わっていることは前述したとおりである。取材源に関しても、『グリム童話集』にはラテン語の書物などを含む文献から取られた話が一定数含まれており(初版では全体の4分の1程度[42]、第7版では5分の1程度[43] の話が文献から取られている)、すべてが口伝えの聞き取りによっているわけではない[注釈 6]。さらにほかの口伝えの情報源に関しても、ドイツのグリム研究者として世界的に有名なハインツ・レレケによる比較的近年の研究によって、上記の「ドイツ生粋の素朴な民衆から聞き取った」という通説が事実とは大きく異なっていたことが明らかにされている。実際には兄弟の聞き取りの取材源のほとんどが都市富裕市民の家庭であり、その中にはフランスなどをルーツとする人物が少なからず含まれていたのである[注釈 7]

グリム兄弟自身は生前メルヒェンの取材源を公にしなかった。唯一の例外がカッセル地方の仕立て屋の妻であった「フィーマンおばさん」ことドロテーア・フィーマンドイツ語版英語版であり、グリム兄弟は第2版の序文で、多数のメルヒェンを提供した彼女の貢献を称え、弟のルートヴィヒ・グリムが書いた彼女の肖像画を掲載したため、彼女は昔話の理想的な語り手として読者から親しまれきた。しかしこの人物は、実際には旧姓をピアソンという、フランスから逃れてきたユグノーの家庭の出で、普段はフランス語を話し『ペロー童話集』などもよく知っている教養ある婦人であったことがヴェーバー=ケラマンの研究によって明らかにされた[47][48]

グリム兄弟の没後、ヴィルヘルムの息子のヘルマン・グリムは、兄弟による取材源のメモを公表した。この際にヘルマンは、メモのなかにある「マリー」という女性について、これは自分の母(ヴィルヘルムの妻となったドルトヒェン・ヴィルト)の実家に住んでいた戦争未亡人のおばあさんで、昔話をよく知っていたと証言している。そのためにこの「マリーおばさん」は、先述の「フィーマンおばさん」と並び『グリム童話集』に貢献した昔話の語り手と信じられるようになった。ところがこれも1975年に発表されたレレケによる研究で、このマリーとは実際には戦争未亡人の老婆「マリーおばさん」などではなく、ヘッセンの高官の家庭であるハッセンプフルーク家の令嬢マリー(de)のことであり、その母親はフランス出身のユグノーであったことが明らかにされた[47]

レレケはこのほかにも、グリム兄弟にメルヒェンを提供した人物の詳細な調査を行い、特に初期の重要なメルヒェン提供者の多くが身分ある家庭の夫人や令嬢であったことを突き止めている[注釈 8]。総じてグリム兄弟は(一般に信じられていたように)農村を歩き回って民衆から話を聞き取ったりはせず、中流以上の裕福で教養ある若い女性に自分のところまで来てもらって話の提供を受けていたのである[49]。ただしレレケは、メルヒェンの提供者が教養ある人物であったことは、必ずしもそれらが上流階級の間でのみ語られていたことを意味しないということに注意を促してもいる。読み書きができ、話もうまいこれら上流階級の女性は下層階級(下僕や女中など)から聞いた話を仲介する役割も担っており、下層階級の人々にとってもそのような仲介は必要なことであった[50]


注釈

  1. ^ グリム兄弟とA.L.グリムは互いに対抗意識を持っており、それぞれ自分の童話集の序文で相手の名を挙げて批判しあっている[8]。アルベルト・ルートヴィッヒ・グリムを含むグリム以前の童話については、板倉敏之他訳『もうひとりのグリム―グリム兄弟以前のドイツ・メルヘン』(北星堂書店、1998年)のアンソロジーがある。
  2. ^ 出版社を変えた背景には、ライマー書店が契約を履行せず正当な印税の支払いを拒んだことなどがあった。この仲違いのために、同書店で20年間勤めていた兄弟の弟のフェルディナント・グリムは職を失っている[18]
  3. ^ もっとも、実際には初版の段階ですでに大幅な加筆修正が行われていることが、比較的聞き取りの状態に近いと考えられるエーレンベルク稿の発見によって明らかになっている。エーレンベルク稿に記されている50程度の作品は、草稿と初版とを比較するとほとんどが後者では2倍近い長さになっているのである[21]
  4. ^ このことから、書き換えに当たったヴィルヘルムが特別に残虐趣味を持っていた、と考えるのは必ずしも妥当ではない。『グリム童話』に登場する残酷な刑罰などのいくつかは過去に実際に行われていたものであり[31]、当時『グリム童話』の性的な部分に難を示した批評家たちも、このような場面の残酷さについては問題にしていなかった[32]
  5. ^ ルース・ボティックハイマーは、童話集の初版と後の版との比較から、グリムが後の版で少女・女性の台詞を直接話法から間接話法に変え、逆に男性や悪い魔女などの台詞は直接話法を増やしており、グリムが「しゃべる女は悪い女だ」というイデオロギーに従っていたことを示している[34][35]
  6. ^ ただし兄弟は文献からの取材であっても、それが口承をもとにした話であると推測できるものを選んでいる[44]
  7. ^ 『グリム童話』に収録された話にはフランスやイタリアなどの物語に由来するものが多数含まれていることは早くから指摘があった[45]。実際「赤ずきん」や「灰かぶり」といった物語は先行するフランスの『ペロー童話集』に同様のものがすでに含まれており、初版に収録されていた「長靴をはいた猫」や「青ひげ」についてはペローのそれと逐語的に似ていたために以降の版では削除されている[46]
  8. ^ 主要な情報源はグリム童話の一覧に記載している。
  9. ^ 例えば「赤ずきん」の話は、第二次大戦下では再解釈が行われ、政治的プロパガンダに利用されたともされている[53]

出典

  1. ^ 野口 (1994)、2-6頁。
  2. ^ Brüder Grimm-Gesellschaft Kassel e.V. のホームページ(http://www.grimms.de/)(2018年12月閲覧)
  3. ^ Ingeborg Weber-Kellermann(1974), p.9.
  4. ^ 野口 (1994)、7-9頁。
  5. ^ 柴田翔編 『はじめて学ぶドイツ文学史』 ミネルヴァ書房、2003年、109頁。
  6. ^ 野口 (1994)、9頁。
  7. ^ ハインツ・レレケ、27-31頁。
  8. ^ 鈴木 (1991)、43、49–50頁。
  9. ^ レレケ (1990)、54頁。
  10. ^ レレケ (1990)、128–129頁。
  11. ^ Rölleke(1975), pp74-86.
  12. ^ 「エーレンベルク稿」の日本語訳は、小澤(1889)。ドイツ語原典はHeinz Rölleke.
  13. ^ レレケ (1990)、131–132頁。
  14. ^ レレケ (1990)、132–133頁。
  15. ^ レレケ (1990)、149頁。
  16. ^ 野口(1994)、113頁。
  17. ^ レレケ (1990)、150頁。
  18. ^ タタール (1990)、45–46頁。
  19. ^ レレケ (1990)、151頁。
  20. ^ 鈴木 (1991)、49頁。
  21. ^ 鈴木 (1991)、132頁。
  22. ^ 野口(2016)、61頁。Weber-Kellerman(1970), pp425-434.
  23. ^ ハインツ・レレケ、138-139頁。
  24. ^ 野口(1994)、38頁。
  25. ^ 野口(2016)、32、45、72頁。
  26. ^ タタール (1990)、36–38頁。
  27. ^ 野口(2016)、17、19、44、110、114-115、126、203頁。
  28. ^ 野口(1994)、106頁。
  29. ^ 野口(2016)、78-79頁。
  30. ^ タタール (1990)、33–34頁。
  31. ^ 野村 (1989)、60–76頁。
  32. ^ 鈴木 (1991)、175–176頁。
  33. ^ 野村 (1989)、3–6頁。
  34. ^ 鈴木 (1991)、180–184頁。
  35. ^ ボティックハイマー (1990)、291–304頁。
  36. ^ 野口(2016)、70-81頁。
  37. ^ 鈴木 (1991)、171–172頁。
  38. ^ Johannes Bolte(1923/24), p.4.
  39. ^ 野口(1994)、20-21頁。
  40. ^ Panzer(1953), p.56.
  41. ^ 野口(1994)、15頁。
  42. ^ 吉原、吉原(1997)、4巻、171-172頁。
  43. ^ 小澤 (1992)、184頁。
  44. ^ レレケ (1990)、83頁。
  45. ^ 鈴木 (1991)、50頁。
  46. ^ 鈴木 (1991)、123頁。
  47. ^ a b 野口(1994)、25-27頁。
  48. ^ Weber-Kellermann (1970), pp425-434.
  49. ^ レレケ (1990)、126頁。
  50. ^ レレケ (1990)、148頁。
  51. ^ 高木(1999)、119–121頁。
  52. ^ 石塚 (1995)、174–175頁。
  53. ^ 石塚 (1995)、175頁。
  54. ^ 野村 (1989)、137–138頁。
  55. ^ Fritz J. Raddatz (Hrsg.): Die ZEIT-Bibliothek der 100 Bücher. Frankfurt a.M.: Suhrkamp 1980. (suhrkamp taschenbuch 645) (ISBN 3-518-37145-2 <700>), S. 170-178 (Beitrag von Hartmut von Hentig).
  56. ^ 沖島博美/朝倉めぐみ(2012)
  57. ^ Yoshiko Noguchi (1997)
  58. ^ 野口(1994)、第8章と第9章がそれに相当する。
  59. ^ 府川(2008)、141頁。
  60. ^ 府川(2008)、141頁。
  61. ^ 野口(1994)、212頁。
  62. ^ 野口(2015)、212-214頁。
  63. ^ 野口(2016)、165頁。
  64. ^ 野口(2005)
  65. ^ 野口(1994)、112-135頁。
  66. ^ 野口(1994)、140-143頁。
  67. ^ 野口(1994)、付属資料③、8頁。
  68. ^ 川戸道昭/野口芳子/榊原貴教(2000)
  69. ^ 野口(1994)、151-157頁。
  70. ^ 中山(2009)
  71. ^ 大島(1994)、211–217頁。
  72. ^ 野口(1977), p.128.
  73. ^ 須田 (1991)、94頁。
  74. ^ 野口(1977), pp. 137-139.
  75. ^ 小澤(1989)
  76. ^ 『完訳グリム童話』(全2巻)、ぎょうせい、1995年。
  77. ^ 『初版グリム童話集』(全4巻) 白水社、1997年。のち白水Uブックス。
  78. ^ 山田 (2004)、75–76頁。





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