エストゥディアンテス・デ・ラ・プラタ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/01/19 01:28 UTC 版)
エストゥディアンテス Estudiantes | ||||
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原語表記 | Club Estudiantes de La Plata | |||
愛称 |
Los Pincharratas (ネズミに注射する奴ら), Pincha (ちくりと刺す) | |||
クラブカラー | 赤・白 | |||
創設年 | 1905年 | |||
所属リーグ | アルゼンチンリーグ | |||
所属ディビジョン | リーガ・プロフェシオナル | |||
ホームタウン | ラ・プラタ | |||
ホームスタジアム |
エスタディオ・ウニコ・ディエゴ・アルマンド・マラドーナ | |||
収容人数 | 53,000[注 1] | |||
代表者 | マルティン・ゴロステギ | |||
監督 | アベル・バルボ | |||
公式サイト | 公式サイト | |||
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歴史
1905年、クルブ・デ・ヒムナシア・イ・エスグリマ・ラ・プラタのフットボール愛好者が、クラブと決別することを決めた。理由はヒムナシアがフットボール場を閉鎖して、フットボール部門を運営することに消極的であったからである。そして、1905年8月4日、彼らは新しいクラブを創設することにした。名称はクルブ・アトレティコ・エストゥディアンテス (Club Atlético Estudiantes)。設立時の首脳陣がみな大学生であったことから、エストゥディアンテス(学生)の名称がつけられた[2]。
1935年にクルブ・ラ・プラタ (Club La Plata) と合併し、現在のクラブ名となった[3]。
1965年にオスバルド・スベルディア監督が就任すると、スベルディア監督は当時としては革新的な戦術(オフサイドトラップの使用や戦術的ファールの遂行など)を用い、傑出した才能を持つ選手たちを率いて黄金期を作り上げた[4]。
1967年にはアルゼンチンの5大クラブ以外で初めてリーグ優勝[2]。
1968年には、コパ・リベルタドーレスの準決勝でラシン・クルブを、決勝でSEパルメイラス(ブラジル)を破り、アルゼンチンのクラブとしては3クラブ目となる南米制覇を遂げた。フアン・ラモン・ベロンはパルメイラスとの決勝3試合(ファーストレグ、セカンドレグ、プレーオフ)すべてで得点し、得点ランキング3位の9得点を挙げた。インターコンチネンタルカップではマンチェスター・ユナイテッドFC(イングランド)と対戦。ボビー・チャールトンやジョージ・ベストらが名を連ねたイングランドの名門に1勝1分で勝利し、初のクラブ世界一となった。
1969年のコパ・リベルタドーレスでは、ウニベルシダ・カトリカ(チリ)やナシオナル(ウルグアイ)を破って2連覇を達成。しかしインターコンチネンタルカップでは、ジャンニ・リベラなどを擁するACミラン(イタリア)に2試合合計2-4で敗れた。キーパーのアルベルト・ポレッティがリベラの頭にひじ打ちを食らわせて大会から永久追放されるなど、セカンドレグは大荒れの展開の試合となった[4]。
1970年のコパ・リベルタドーレスでは、リーベル・プレートやCAペニャロール(ウルグアイ)を破って3連覇を達成。しかしインターコンチネンタルカップでは、UEFAチャンピオンズカップでACミランなどを破って優勝したフェイエノールト(オランダ)に2試合合計2-3で敗れた。この時期のエストゥディアンテスにはJ・R・ベロンの他にカルロス・ビラルドなども在籍していた。同年に現役引退したビラルドは1971年に古巣の監督に就任し、計4度に渡ってエストゥディアンテスの指揮を執った。3期目となった1982年にはアレハンドロ・サベーラなどを擁して15年ぶりのリーグ優勝を果たし、1983年のコパ・リベルタドーレスでは4度目の南米タイトルに挑戦したが、準決勝リーグでグレミオFBPA(ブラジル)に敗れ、3クラブ中2位に終わって敗退した。ビラルドがアルゼンチン代表の指揮を執った1986 FIFAワールドカップはディエゴ・マラドーナのための大会と呼ばれるが、決勝の西ドイツ戦では、1982年のリーグ優勝時にエストゥディアンテスでキャプテンを務めていたホセ・ルイス・ブラウンが先制点を挙げた。1983年以降は20年以上も無冠の時代が続いた。
1994年にはクラブにとって2回目となるプリメーラB・ナシオナル(2部)降格を経験したが、若き日のマルティン・パレルモらがいたチームは翌年にプリメーラ・ディビシオン(1部)に復帰した[5]。1993年にはJ・R・ベロンの息子のフアン・セバスティアン・ベロンがデビューし、ヨーロッパの強豪クラブを渡り歩いた後に2006年にエストゥディアンテスに復帰した。ディエゴ・シメオネ監督が率いたアペルトゥーラ2006はボカ・ジュニアーズを追いかける展開だったが、優勝決定戦でボカを破って23年ぶりのリーグ優勝を果たした[5]。2008年のコパ・スダメリカーナではボタフォゴFR(ブラジル)やAAアルヘンティノス・ジュニアーズ(アルゼンチン)を破り、決勝でSCインテルナシオナル(ブラジル)に敗れたものの準優勝した。2009年には第50回目のコパ・リベルタドーレスに出場し、グループリーグを2位通過すると、準々決勝でデフェンソール・スポルティング(ウルグアイ)を、準決勝でナシオナル(ウルグアイ)を破って決勝に進出。決勝はグループリーグで首位を譲ったクルゼイロECとの対戦となった。ホームでのファーストレグはスコアレスドローに終わり、アウェーでのセカンドレグは先制点を許す苦しい展開だったが、ガストン・フェルナンデスとマウロ・ボセーリの得点で逆転して39年ぶり4回目の優勝を果たし、親子二代での南米制覇となったJ・S・ベロンが大会最優秀選手に輝いた[2][6]。同年12月にはアラブ首長国連邦で開催されたFIFAクラブワールドカップに出場したが、FCバルセロナ(スペイン)に敗れた。
ニックネーム
エストゥディアンテスの愛称の「Los Pincharratas (ロス・ピンチャラタス:ネズミに注射する奴ら)」は「Pinchar (注射する)」と「Rata (ネズミ)」を合わせた造語である。これは医学部の学生が研究実験のためにラットに注射をしたりするが、その様子から来ている。エストゥディアンテスは学生という名前のチームなので、学生をイメージしてできた愛称である。しかし、実際にはPincharを短縮して、単に「Pincha (ピンチャ)」と呼ばれることの方が多い。
1960年代後半のクラブ黄金期にカルロス・ビラルドらが本当にピンで相手選手を刺していたからだという説もある[7]。
注釈
出典
- ^ “Presidente y futbolista: Juan Sebastián Verón firmó un contrato mínimo para volver a jugar en Estudiantes”. Diario La Nación (2016年12月8日). 2023年1月19日閲覧。
- ^ a b c スポーツナビ (2009年12月7日). “南米王者エストゥディアンテス、3度目の“奇跡”を”. 2012年9月28日閲覧。
- ^ “Historia”. Estudiantes de La Plata Sitio Oficial. 2016年3月9日閲覧。
- ^ a b スポーツナビ (2009年7月21日). “エストゥディアンテス、神話の復活”. 2012年9月28日閲覧。
- ^ a b スポーツナビ (2009年7月22日). “ベロンが語るクラブ愛、そしてアルゼンチン代表”. 2012年9月28日閲覧。
- ^ msn産経ニュース (2009年7月16日). “エストゥディアンテスが南米クラブ王者に”. 2009年7月16日閲覧。
- ^ footballista、ソルメディア、2009年7月29日・8月5日合併号
- ^ “Estudiantes squad”. Soccerway 2018年10月6日閲覧。
- ^ “La Copa de Plata es Pincha”. Club Estudiantes de La Plata (2018年7月24日). 2019年2月3日閲覧。
- 1 エストゥディアンテス・デ・ラ・プラタとは
- 2 エストゥディアンテス・デ・ラ・プラタの概要
- 3 ユニフォーム
- 4 現所属メンバー
- 5 歴代監督
- 6 脚注
- エストゥディアンテス・デ・ラ・プラタのページへのリンク