アントニン・ドヴォルザーク 主な作品

アントニン・ドヴォルザーク

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主な作品

ドヴォルザークの作品には作品番号のないものもあり、また作曲順になっていないものも多い。このためヤルミル・ブルクハウゼルの整理番号が併記される場合がある。この整理番号は通常「B.」で略記され「B番号」と呼ばれる。

交響曲

交響曲第1番 ハ短調 作品3、B.9 「ズロニツェの鐘」 (Zlonické zvony)
1865年の作品。作曲コンクールに提出されたが後紛失、1923年にスコアが発見され、1961年になってから出版された。1936年10月4日、ブルノで初演。
交響曲第2番 変ロ長調 作品4、B.12
1865年の作品。1887年に改訂の後、1888年3月11日にプラハで初演。
交響曲第3番 変ホ長調 作品10、B.34
1873年の作品。1874年3月29日、プラハで初演。
交響曲第4番 ニ短調 作品13、B.41
1874年の作品。第3楽章のみ1874年5月25日に初演されたが、全曲の初演は1892年3月6日プラハにて。
交響曲第5番 ヘ長調 作品76、B.54
1875年の作品。1879年3月29日、プラハで初演。
交響曲第6番 ニ長調 作品60、B.112
1880年の作品。1881年3月25日、プラハで初演。
交響曲第7番 ニ短調 作品70、B.141
1884-85年の作品。1885年4月22日、ロンドンで初演。劇的序曲『フス教徒』ととも主題上の関係がある作品。
交響曲第8番 ト長調 作品88、B.163
1889年の作品。1890年2月2日プラハで初演。イギリスのロンドンの出版社から出版されたため、かつては「イギリス」の愛称で呼ばれたこともあった。
交響曲第9番 ホ短調 作品95、B.178「新世界より」 (Z nového světa)
1893年の作品。同年12月16日、ニューヨークで初演。第2楽章ラルゴは、日本では小学校の音楽の授業で取り上げられる機会もあることから広く知られた楽章であり、コーラングレによって奏される印象的な主部の主題は歌詞がつけられ唱歌「家路」などとしても知られる。新世界よりという表題はニューヨーク・フィルハーモニックによる初演の少し前にスコアに書き記された。

管弦楽曲

序曲

序曲「わが家」 (Domov můj) 作品62a、B.125a
本来はフランティシェク・フェルディナント・シャンベルクの芝居『ヨゼフ・カイエターン・ティル』の劇音楽として作曲された10曲の中の1曲であるが、現在ではこの序曲以外が演奏されることはほとんどない。ヨゼフ・カイエターン・ティルは、チェコの近代演劇を確立した実在の人物(1808 - 1856)。晩年は独立運動に荷担した罪を問われ、旅役者として極貧のうちに亡くなった。モーツァルトの歌劇『ドン・ジョヴァンニ』が初演されたことで知られるティル劇場は、彼の名に由来する。
タイトルは、上記の芝居とは関係がなく、第1主題が「わが家の庭先では」という民謡から採られていることに由来する。したがって、この曲のタイトルはしばしば「わが故郷」と訳されるが、「わが家」がより適切な訳である。
初演は1882年2月3日、ティルの誕生日に行われた公演で、指揮はアドルフ・チェフが執った。
劇的序曲「フス教徒」 (Hustiská dramatická ouvertura) 作品67、B.132
フス教徒(フス派)とは、15世紀初めのチェコの宗教改革家ヤン・フスを支持した者たちのことで、フスの死(1415年)以降はさらに勢いを増し、十字軍を退け、1420年から1434年までの短い期間ではあったが民主主義政権を成立させたりもした。チェコ国民劇場の総裁フランティシェク・アドルフ・シュベルトはフス教徒時代を主題とした三部から成る演劇を企画し、その音楽として依頼に応えて作曲されたのがこの作品である。この作品には2つの有名な旋律が用いられている。1つはスメタナの『わが祖国』の第5曲、第6曲でも用いられているコラール『汝ら神の戦士達』で、これはフス教徒時代のターボル派の僧によって作曲された軍歌であるとされている。もう一つはチェコ民族の守護聖人ヴァーツラフ1世を讃える12〜13世紀に創られたコラールである。これらが明らかに示しているとおり、この作品は、フス教徒に祖国独立運動の願いを仮託した愛国主義的作品である。
初演は1883年11月18日モジツ・アンゲル指揮、プラハの国民劇場管弦楽団により演奏された。
序曲「自然の中で」 (V přírodě) 作品91、B.168
序曲「謝肉祭」 (Karneval) 作品92、B.169
序曲「オセロ」 (Othello) 作品93、B.170
この3作は、まとめて序曲三部作「自然と人生と愛を形成する。時に組曲と呼ばれるが、実際の演奏会では3曲連続で演奏されることは稀で、演奏頻度は「謝肉祭」が圧倒的に高い。作曲は1891年3月から1892年1月にかけて続けてなされた。初演は1892年4月28日、プラハにおいて作曲者の指揮、国民劇場管弦楽団により行われた。「オセロ」作曲後もタイトルを「悲劇的」にしようか「エロイカ」にしようかと出版社のジムロックに相談していることからも判るように、これらは決して標題音楽ではなく、各曲がそれぞれ漠然と自然、人生、愛に対応しているに過ぎない。
なお、第1曲の題名は英語訳からの重訳で「自然の王国で」とされることもあるが、原題からの直訳では「自然の中で」とするのが適切である。

交響詩

ドヴォルザークは、チェコの国民的な詩人カレル・ヤロミール・エルベンの「花束」という詩集の中のバラードにインスピレーションを得て4曲の交響詩を1896年に立て続けに作曲している。また、翌1897年にはエルベンの詩から離れ、特定のストーリーを持たない「英雄の歌」を作曲しているが、この作品の演奏機会はエルベンによる4作に比べかなり低い。

「水の精」 (Vodník) 作品107、B.195
1896年1月から2月に作曲された。1896年6月3日プラハにてアントニン・ベンネヴィツの指揮により初演された。
ある娘が親の反対を押し切り、水界の王と結婚し、子供をもうけた。ある日、人間の歌を歌って子供あやしていると王にひどく叱られた。妃は里帰りさせてほしいと懇願して許され、親許に帰るが、母親は娘を水王のところへ戻そうとしない。妃が約束の時間までに帰らないので実家の前まで来た水王は怒って嵐を起こす。その最中に大きな物音がしたので娘が戸を開けてみると、我が子が首を切られて捨てられていた。
「真昼の魔女」 (Polednice) 作品108、B.196
1896年1月11日から2月27日の間に作曲され、初演は1896年11月21日ヘンリー・ウッドの指揮によりロンドンで行われた。
物語は、魔女が自分の悪口を言った母親に復讐するために子供を殺すという話。クラリネットで演奏される「子供の主題」とヴァイオリンで演奏される「母親の叱責の主題」が展開・変奏されて行き、それぞれ「魔女の主題」、「魔女の踊り」へと変容してゆく構成になっている。
レオシュ・ヤナーチェクはこの作品を大変に気に入っており、絶賛する評論を書いている。
「金の紡ぎ車」 (Zlatý kolovrat) 作品109、B.197
1896年1月15日から4月25日に作曲。1896年11月21日にロンドンで初演された。エルベンの詩による4曲の交響詩の中では最も長く、冗長との批判もある。このため、ヨゼフ・スクにより改訂されたこともある。
ドルニチュカという娘が森の奥の小屋で継母とその実の娘と一緒に住んでいた。狩にやってきた若い王に水を差しだし見初められたドルニチュカは、城に向かう途中、継母らの計略で殺され、その遺骸は森に捨てられる。しかし魔法使いが現れ、再び生き返らせる。魔法使いはドルニチュカに替わって王妃となった継母の娘に金の紡ぎ車を贈る。戦場から戻った王がその糸車で糸を紡ぐように命じ、王妃がそれを回すと、糸車が継母達の悪行を歌う。王はその歌に従って森へ駆けつけ、ドルニチュカと再会して、彼女と結ばれる。
「野ばと」 (Holoubek) 作品110、B.198
1896年10月22日から11月18日の作曲。1898年3月20日、ブルノでレオシュ・ヤナーチェクの指揮により初演された。
物語は、夫の死を嘆く若い未亡人から始まるが、その涙は偽りの涙であると語る。やがて若い美形の男が未亡人に近づき、2人は結婚する。亡くなった先夫の墓の上に樫の木が生え、野鳩が巣を作り、悲しげな声で鳴く。妻はその声を聞き、発狂して自殺してしまう。先夫は彼女が毒殺したのであった。音楽はこの物語を忠実になぞり、葬送の音楽から始まり、若い男と出会う未亡人の心のざわめき、結婚の祝宴、悲しげな野鳩の鳴き声を描き出し、最後は妻の罪を赦すかのように穏やかな長調で終わる。すべての主要主題が最初の1つの動機から導き出され多彩な変容を遂げる技巧的な構成であり、そのために高い緊張感と引き締まった構成をみせる傑作で、ドヴォルザークの交響詩の中で最も演奏頻度の高い作品である。
「英雄の歌」 (Píseň bohatýrská) 作品111、B.199
1897年作曲、1898年12月4日、ウィーンにてグスタフ・マーラーの指揮により初演。

セレナード

ドヴォルザークはセレナードを、いずれも30代の時期に2曲作曲しているが、楽器編成が異なっており、それぞれ「弦楽セレナード」「管楽セレナード」と呼ばれる。

セレナード ホ長調 作品22、B.52
弦楽合奏のためのセレナード。1875年5月3日から14日までの10日あまりで作曲されている。オーストリア政府からの奨学金が決まり、2年前に結婚した妻との安定した生活が保障された幸福な時期の作品で、穏やかな愛情に満ちた作品となっている。1876年12月10日にプラハの国民劇場管弦楽団員および合唱団員の年金基金募集のための演奏会で初演された。指揮はアドルフ・チェフが執った。
モデラートの三部形式の第1楽章、メヌエットの第2楽章、スケルツォの第3楽章、ラルゲットの第4楽章、アレグロ・ヴィヴァーチェのロンド・ソナタ形式の第5楽章からなる。いずれの楽章もカノンの模倣効果によってしなやかな叙情を描くことに成功している。
セレナード ニ短調 作品44、B.77
管楽アンサンブルのためのセレナード。1878年、『スラヴ舞曲』第1集と同時期の作品で、民俗音楽の要素をセレナードの形式に見事に融合させた作品となっている。1878年11月17日にドヴォルザーク自身の指揮によりプラハで開催された自作発表演奏会で初演された。
第1楽章 モデラート・クアジ・マルチャ(行進曲)、第2楽章 メヌエット、第3楽章 アンダンテ・コン・モート、第4楽章 アレグロ・モルトのロンドの4つの楽章からなる。

スラヴ舞曲

スラヴ舞曲 第1集 作品46、B.83 (4手ピアノ版はB.78)
【1. ハ長調 / 2. ホ短調 / 3. 変イ長調 / 4. ヘ長調 / 5. イ長調 / 6. ニ長調 / 7. ハ短調 / 8. ト短調】
1878年、出版社ジムロックからの要請で作曲されて大成功を収め、ドヴォルザークを当時の音楽界の中心へと押し上げる契機となった作品である。最初、4手のピアノ作品として作曲、出版されたが、出版と同時に大人気となり、ただちに管弦楽版の出版が決まった。管弦楽版の初演は1878年5月16日に第1、3、4番の3曲がアドルフ・チェフの指揮で行われている。
スラヴ舞曲 第2集 作品72、B.147 (4手ピアノ版はB.145)
【1. ロ長調 / 2. ホ短調 / 3. ヘ長調 / 4. 変ニ長調 /5. 変ロ短調 / 6. 変ロ長調 / 7. ハ長調 / 8. 変イ長調】ただし、番号は第1集からの通し番号で、9番から16番で呼ばれる場合もある。
第1集の大成功から、ジムロックは第2集の作曲をドヴォルザークに依頼したが、彼はこのころ大作の作曲に取りかかっており、同じ形式の小曲をさらに8曲作曲することに興味が持てずにいた。しかし、8年後の1886年6月、突然この作品集に取りかかると、1ヶ月後の7月には4手ピアノによる作品8曲を完成させた。管弦楽編曲は1886年11月から1887年1月にかけて行われ、1887年1月6日、作曲者自身が指揮を執りプラハで第1、2、7番の初演を行っている。
第1集に比べ、チェコ特有の音楽が抑えられ、汎スラブ的色彩の強い作品集となっているのが特徴である。

その他

交響的変奏曲 作品78、B.70
1877年に作曲された作品で、ブラームスの「ハイドンの主題による変奏曲」の影響が指摘される作品。しかし、その変奏曲は民俗色の豊かな作品で、多彩な変奏技法が凝らされたドヴォルザークの変奏曲中最も優れた作品である。初演は、1877年12月2日、ルデヴィート・プロハースカの指揮により行われた。
3つのスラヴ狂詩曲 作品45、B.86
【1. ニ長調 / 2. ト短調 / 3. 変イ長調】
1878年の作品。いずれも民謡風の素材を活かした舞曲風の作品である。特に第3番が有名であるが、これは指揮者ハンス・リヒターが好んで採り上げ、ヨーロッパ各地で演奏したことによる。
チェコ組曲 ニ長調 作品39、B.93
伝説曲 (Legendy) 作品59、B.122
全10曲【1. ニ短調 / 2. ト長調 / 3. ト短調 / 4. ハ長調 / 5. 変イ長調 / 6. 嬰ハ短調 / 7. イ長調 / 8. ヘ長調 / 9. ニ長調 / 10. 変ロ短調】
交響曲第6番の完成直後、1881年初めに作曲された4手ピアノ用作品 (B.117) を同じ年に管弦楽用に編曲したもの。原曲はエドゥアルト・ハンスリックに献呈された。各曲に特別な伝説や詩物語があるわけではない。4手ピアノの作品としては、2つの「スラヴ舞曲集」の間に書かれている作品であることから、「スラヴ舞曲」で描ききれなかったスラヴ的なもの、メランコリックな気分や神秘的なものへの傾斜、深い情念の世界を描きだし、舞曲集を補完するものと位置づけられている。
スケルツォ・カプリチオーソ 作品66、B.131
1883年4月から5月にかけて作曲された作品で、1883年5月16日にアドルフ・チェフ指揮の国民劇場管弦楽団により初演された。指揮者アルトゥール・ニキシュが賞賛し、演奏会でたびたび採り上げ、有名となった。
アメリカ組曲 イ長調 作品98B、B.190
弦楽のための夜想曲 ロ長調 作品40、B.47
1875年ごろ、弦楽四重奏曲第4番より編曲。

協奏曲

ドヴォルザークはピアノ協奏曲ヴァイオリン協奏曲チェロ協奏曲を1曲ずつ完成させている。中でもチェロ協奏曲は「ドヴォルザークのコンチェルト」を短縮した「ドボコン」の愛称で親しまれており、古今のチェロ協奏曲中最も親しまれている作品である。なお、習作時代のイ長調のチェロ協奏曲も遺されているが、これは未完成な作品で演奏される機会はほとんどない。

ピアノ協奏曲 ト短調 作品33、B.63
1876年の作品。1883年3月24日、プラハにて初演。
ヴァイオリン協奏曲 イ短調 作品53、B.108
ドヴォルザークの協奏曲といえば、チェロ協奏曲があまりに有名であるためその影は薄いものの、このヴァイオリン協奏曲は比較的演奏機会の多い作品である。この作品は、当時の大ヴァイオリニストでブラームスの友人としても有名なヨーゼフ・ヨアヒムの勧めにより作曲された。1879年7月から9月にかけて作曲を行い、ヨアヒムの助言を容れて修正を行った上で1880年5月に完成、ヨアヒムに献呈された。しかし、ヨアヒムが公開の場でこの作品を演奏することはなく、1882年夏にさらなる改訂を施され、1883年10月14日にドヴォルザークの熱狂的な支持者であったフランティシェク・オンドルシーチェックの独奏によりプラハで初演された。
チェロ協奏曲 ロ短調 作品104、B.191
1894-95年の作品。1895年6月に改訂された後、1896年3月19日、ロンドンで初演。
森の静けさ (Klid) 作品68-5、B.182
原曲は1883年から1884年に書かれたピアノ連弾のための作品。1891年にチェロとピアノのための室内楽作品に編曲され、さらに1893年にチェロと管弦楽のための作品に編曲された。

室内楽曲

六重奏曲

弦楽六重奏曲 イ長調 作品48、B.80
作曲1878年、初演1879年ベルリン、 ヴァイオリン2・ヴィオラ2・チェロ2

五重奏曲

ピアノ五重奏曲第1番 イ長調 作品5 B.28
作曲1872年、初演1872年プラハ
ピアノ五重奏曲第2番 イ長調 作品81、B.155
1887年、ヴィソカーの別荘で作曲された。スラヴ民謡風の旋律を豊かな和声で彩る美しい作品。一見古典的な4楽章構成だが、第1楽章や終楽章のソナタ形式には独自の工夫が見られ、作曲者の揺るぎない自信が感じられる作品となっている。
1888年1月6日にプラハの市民クラブ会館で初演された。
弦楽五重奏曲第1番 イ短調 作品1、B.7
作曲1861年、初演1921年プラハ、 ヴァイオリン2・ヴィオラ2・チェロ1
弦楽五重奏曲第2番 ト長調 作品77、B.49
作曲1875年、初演1876年プラハ、 ヴァイオリン2・ヴィオラ1・チェロ1・コントラバス1
弦楽五重奏曲第3番 変ホ長調 作品97、B.180
1893年夏期休暇で訪れていたアイオワ州スピルヴィルで作曲された。有名な弦楽四重奏曲『アメリカ』の完成3日後の6月26日に着手された作品で、「アメリカ」五重奏曲と呼ばれることもある。同年8月1日に完成し、翌年の1月にニューヨークで初演された。
編成は弦楽四重奏にヴィオラを加えたもの。伸びやかな楽想が印象的な作品である。

四重奏曲

ピアノ四重奏曲第1番 ニ長調 作品23、B.53
作曲1875年、初演1880年ベルリン
ピアノ四重奏曲第2番 変ホ長調 作品87、B.162
作曲1889年、初演1890年プラハ
バガテル 作品47,B.79
作曲1878年、初演1879年プラハ、ヴァイオリン2・チェロ1・ハルモニウム(またはピアノ)1
弦楽四重奏曲

ドヴォルザークには全部で14曲の弦楽四重奏曲があるが、現在よく耳にするのは第8番以降の7曲である。これ以前の作品には、シューベルト、ワーグナー、ベートーヴェン、スメタナといった先人の強い影響が感じられ、習作の域を脱しきれないもどかしさがつきまとうが、第8番以降の作品にはドヴォルザーク自身の強い個性と意志が込められている。

弦楽四重奏曲第1番 イ長調 B.8
作曲1862年、初演1862年プラハ
弦楽四重奏曲第2番 変ロ長調 B.17
作曲1870年?
弦楽四重奏曲第3番 ニ長調 B.18
作曲1870年? 70分前後を要する長大な作品。
弦楽四重奏曲第4番 ホ短調 B.19
作曲1870年?
弦楽四重奏曲第5番 ヘ短調 作品9、B.37
作曲1873年、初演1930年プラハ
弦楽四重奏曲第6番 イ短調 作品12、B.40
作曲1873年
弦楽四重奏曲第7番 イ短調 作品16、B.45
作曲1874年、初演1874年プラハ。L.プロハスカに献呈
弦楽四重奏曲第8番 ホ長調 作品80、B.57
1876年1月から2月にかけて作曲された。ドヴォルザークはこの前年の9月に長女を亡くしており、その深い悲しみの影がこの作品に独特な翳りを与えている。初演は1889年4月4日にロンドンで行われた演奏会であったろうと推測されている。
弦楽四重奏曲第9番 ニ短調 作品34、B.75
1877年12月の作品。出版社ジムロックを紹介してくれた恩人ブラームスに献呈するために作曲された作品であり、引き締まった構成にブラームスの作品を研究した後がうかがわれる。また、スラブ民謡の要素がそこここに見られる点も興味深い。1882年2月27日にフェルディナント・ラハナーらによって演奏されたのが初演であったと推測される。
弦楽四重奏曲10番 変ホ長調 作品51、B.92
当時有名な弦楽四重奏団であったフローレンス四重奏団の主催者ヤン・ベッカーからの「スラヴ的な弦楽四重奏曲」を書いてほしいとの依頼に応えて1878年12月から79年3月に作曲された作品。注文通りスラヴ情緒が横溢する作品である。1879年7月29日ベルリンのヨアヒム邸で開かれた私的な演奏会で初演された。
弦楽四重奏曲第11番 ハ長調 作品61、B.121
ヘルメスベルガー四重奏団からの依頼に応えて作曲された作品で、1881年11月10日に完成している。初演は、ヘルメスベルガー四重奏団がウィーンで行う予定であったが、リング劇場の火事によりキャンセルされ、1882年11月にベルリンでヨアヒム四重奏団によって行われた。ウィーンでの演奏を念頭に置いて作曲されたため、ボヘミア的な要素は抑えられている。
弦楽四重奏曲第12番 ヘ長調 作品96、B.179 『アメリカ』 (Americký)
1893年の作品。1894年1月1日ボストンにて初演。
弦楽四重奏曲第13番 ト長調 作品106、B.192
1895年にアメリカから帰国したドヴォルザークが約半年の休養を経て書かれた作品で、1895年11月から12月にかけて作曲された。初演は1896年10月9日、プラハでチェコ弦楽四重奏団により行われた。故郷に帰ったくつろいだ感覚に満ちた作品で音楽評論家のクラップハムはこの作品の前半2つの楽章について「彼の室内楽曲の中で最もすばらしい」と賞賛している。
弦楽四重奏曲第14番 変イ長調 作品105、B.193
アメリカ滞在中に着手され、チェコに帰国した後1895年12月30日に完成した。第13番同様、祖国への愛情が凝縮された作品である。
弦楽四重奏のための『糸杉』 (Cypřiše) B.152
歌曲集『糸杉』B.11から12曲を1887年に編曲したもの。

三重奏曲

ピアノ三重奏曲第1番 変ロ長調 作品21、B.51
作曲1875年、初演1877年プラハ
ピアノ三重奏曲第2番 変ロ長調 作品26、B.56
作曲1876年、初演1879年トゥルノフ
ピアノ三重奏曲第3番 ヘ短調 作品65、B.130
1883年2月から3月にかけて作曲され、同年秋に改訂されている。初演は1883年10月27日、ボヘミアの町ムラダー・ボレスラフにて、作曲者のピアノ、フェルディナント・ラハナーのヴァイオリン、アロイス・ネルーダのチェロで行われた。ハンスリックにウィーンへ来るよう誘われ、オペラ作曲家としての栄光とチェコへの愛国心の葛藤に悩まされた時期の作品で、比較的荒々しい表現が目立つ作品となっている。
ピアノ三重奏曲第4番 ホ短調 作品90、B.166 「ドゥムキー」
1890年11月から翌91年の2月にかけての作品で、1891年4月21日に作曲者のピアノ、ラハナーのヴァイオリン、ハヌシュ・ヴィハーンのチェロで初演された。「ドゥムキー」とはウクライナの民謡形式の一つ「ドゥムカ」の複数形だが、チェコ語で同じ「ドゥムカ」という言葉があり、「回想」あるいは「瞑想」を意味する。ドヴォルザークの作品が民謡としての「ドゥムカ」の形式を必ずしも踏襲していないことから、後者の意味で使っているという説もあるが、定かではない。この作品は6つの楽章からなるが、ソナタ形式の楽章が一つもなく、調性の統一も見られない上に、全曲を統一する主題や動機もないという、多楽章作品としては特異な形式の作品である。
弦楽三重奏曲 ハ長調 作品74、B.148
作曲年1887年、初演1887年プラハ、ヴァイオリン2・ヴィオラ1
ミニアチュア (Drobnosti) 作品75a, B. 149
作曲年1887年、初演1938年プラハ、ヴァイオリン2・ヴィオラ1
ガヴォット (Gavota) ト短調 B.164
作曲1890年、3本のヴァイオリンのための作品。

二重奏曲

ヴァイオリンソナタ ヘ長調 作品57, B.106
1880年の作品。もう一曲イ短調の曲(B.33、1873年作曲)があったが、初演後破棄してしまった。
カプリッチョ Capriccio B.81
1878年の作品。(ヴァイオリン1、ピアノ1)
バラード I balada 作品15、B.139
1885年の作品。(ヴァイオリン1、ピアノ1)
ロマンティックな小品 (Romantické kusy) 作品75, B.150
4曲から成る小品集。この作品は、1887年1月中旬にまず弦楽三重奏曲として作曲された。この後すぐにヴァイオリンとピアノのための作品として編曲を行い。同じ月の25日にはすでに編曲が完了した。初演は1887年3月30日、作曲者のピアノ、カレル・オンドジーチェクのヴァイオリンで行われた。
ソナティーナ ト長調 作品100、B.183
1893年11月から12月に15歳の娘オティリエと10歳の息子アントニンのために作曲したヴァイオリンとピアノのための作品。このため、技巧的には、子供にも弾けるような作品で、同時期の「新世界交響曲」や「アメリカ四重奏曲」などと類似の特徴が認められる親しみやすい音楽である。
森の静けさ (Klid) 変ニ長調 作品68-5、B.173
ピアノ連弾曲を1891年にチェロとピアノのための室内楽作品として編曲したもの。後にチェロと管弦楽作品として再度編曲されている。
チェロソナタ ヘ短調 B.20
1871年の作品。チェロパート譜の一部のみ現存。
ポロネーズ イ長調 B.94
1879年の作品。初演は1879年トゥルノフ。(チェロ1、ピアノ1)

器楽曲

4手ピアノのための作品

スラヴ舞曲 第1集 (Slovanské tance) 作品46、B.78
伝説曲 (Legendy) 作品59、B.117
スラヴ舞曲 第2集 (Slovanské tance) 作品72、B.145
いずれも管弦楽編曲され親しまれている。
ボヘミアの森から (Ze Šumavy) 作品68、B.133
全6曲【1. 糸を紡ぎながら / 2. 暗い湖の畔で / 3. 魔女の安息日 / 4. 待ち伏せ / 5. 森の静けさ / 6. 嵐の時】
1883年秋から84年1月にかけて作曲された。原題は、「シュマヴァの森から」。第5曲は1891年にチェロとピアノのための室内楽作品 (B.173) に、次いで1893年にチェロと管弦楽のための作品 (B.182) に編曲された。

ピアノ独奏曲

主題と変奏 (Tema con variazioni) 変イ長調 作品36、B.65
1876年に作曲された作品で、曲集を除くピアノ独奏曲としてはドヴォルザーク作品中最も規模の大きな作品である(演奏時間約12分)。主題と8つの変奏から成る。ベートーヴェンのピアノソナタ第12番の第1楽章をモデルに作曲されたと考えられる。
詩的な音画 (Poetické nálady) 作品85、B.161
全13曲【1. 夜の道 / 2. たわむれ / 3. 古い城で / 4. 春の歌 / 5. 農夫のバラード / 6. 悲しい思い出 / 7. フリアント / 8. 妖精の踊り / 9. セレナード / 10. バッカナール / 11. おしゃべり / 12. 英雄の墓にて / 13. 聖なる山にて】
1889年作曲。「ボヘミアの森から」とは異なる視点からボヘミアの田舎を描き出した作品。ドヴォルザークはジムロックへの手紙に「シューマンのような標題音楽を書きました。ただし音楽はシューマン風ではありませんが」と書いている。
ユーモレスク (Humoresky) 作品101、B.187
全8曲【1. 変ホ短調 / 2. ロ長調 / 3. 変イ長調 / 4. ヘ長調 / 5. イ短調 / 6. ロ長調 / 7. 変ト長調 / 8. 変ロ短調】
1894年の夏の休暇にチェコに帰国した際に作曲された。第7曲はクライスラーのヴァイオリン独奏はじめ様々に編曲され親しまれており、原曲がピアノ独奏曲であることは半ば忘れられている。

声楽曲

教会音楽、カンタータ、オラトリオ

スターバト・マーテル 作品58、B.71
ソプラノ、アルト、テノール、バス、合唱、オーケストラ
1875年9月、ドヴォルザークは長女を失う不幸に見舞われた。彼は、1876年2月にこの曲に着手し5月にはスケッチを完成させたが、他の仕事に手を取られてこの作品は棚上げにされていた。ところが、1877年8月に次女を、9月に長男を相次いで失い、彼らの冥福を祈る意味でこの作品に再び向かうと、11月13日にはオーケストレーションを完成させた。全10曲中アレグロで書かれているのは、終曲の後半のみで、あとはすべて緩徐な曲である。また、10曲中4曲が長調の曲であり、深い悲しみを克服し穏やかな平安を得ようとする真摯な祈りに満ちた作品となっている。
初演は1880年12月23日、プラハ音楽芸術家協会の定期コンサートにおいてアドルフ・チェフの指揮により行われた。
レクイエム 変ロ短調 作品89、B.165
ソプラノ、アルト、テノール、バス、合唱、オーケストラ
1890年1月から10月にかけて作曲された。この時期はドヴォルザークにとって栄誉に満ちた時期であった。前年の1889年にはチェコ人としては異例なことに鉄冠勲章をオーストリア皇帝から与えられ、1890年になるとチェコの科学芸術アカデミー会員に列せられ、カレル大学の名誉哲学博士の学位を贈られてもいる。プラハ音楽院の教授に就任したのも、この作品完成直後のことであった。イギリスのバーミンガム音楽祭のための新作依頼に応えて作曲されたもので、「スターバト・マーテル」の場合とは異なり、精神的衝動が契機となったものではないが、素朴で抒情的な美しい旋律にあふれたレクイエムであり、ブルクハウゼルは「ドヴォルザークの全作品中最も哲学的な作品」と評している。第1曲の冒頭のF - Ges - Eの音程進行は、ドヴォルザークが深く敬愛したバッハのロ短調ミサの第3曲の冒頭(Fis - G - Eis)の引用である。
1891年10月9日、バーミンガム音楽祭において作曲者自身の指揮によって初演された。
テ・デウム ト長調 作品103、B.176
ソプラノ、バス、合唱、オーケストラ
1892年、渡米直後に開かれるアメリカ発見400年祭のための作品として渡米直前に作曲された。ドヴォルザークを招いたジャネット・サーバー夫人からの依頼で、当初の予定ではアメリカの詩人ジョセフ・ロドマン・ドレイクの詩「アメリカの旗」に付曲することになっていたのだが、プラハのドヴォルザークの元にその詩が送られてこず、典礼文「テ・デウム」に付曲することにし、同年の6月25日から7月28日にかけて作曲され、1892年10月21日にニューヨークでドヴォルザークの指揮により初演された。カンタータ「アメリカの旗」(作品102、B.177)は渡米後の1893年に完成された。
渡米前の作品であるにもかかわらず、すでにいくつかの主題が五音音階で構成されていることから、ドヴォルザークが渡米前からアメリカの民俗音楽を研究していたことが示唆される作品である。
カンタータ「幽霊の花嫁」 (Svatební košile) 作品69、B.135
ソプラノ、テノール、バス、合唱、オーケストラ
1883年5月から11月の作曲。翌年3月28日プルゼニュにおいて作曲者自身の指揮により初演された。
原作はカレル・ヤロミール・エルベンの「初夜の肌衣」 (Svatební Košile) 。序曲と3部18曲からなる。第1部「乙女の部屋」、女が恋人の亡くなったことを知らず、思い続けている。そして「恋人を帰すか、私の命を絶つか」と祈る。第2部「夜の道行き」では、死んだ恋人の幽霊が現れ墓場へ誘う。第3部「墓場にて」で、女は苦しみの後に罪を悟り神に許しを乞い、救われる。
オラトリオ「聖ルドミラ」 (Svatá Ludmila) 作品71、B.144
ソプラノ、アルト、テノール、バス、合唱、オーケストラ
1885年9月から翌年5月にかけて作曲された。初演は1886年10月15日、イギリスのリーズで行われた。ドヴォルザークの創作意欲、技術、能力の最盛期を告げる作品である。
ヤロスラフ・ヴルフリツキーの台本よる作品で、9世紀後半、チェコでのキリスト教受容の歴史を描いている。聖ルドミラは、チェコの統一を成し遂げた王ボジヴォイ1世の妃(一説には娘)で、国家としてギリシャ正教を受け容れ、国民を帰依させることに貢献した。王の死後、ローマ・カトリック信者であった息子の嫁ドラホミーラによって暗殺された。このため、正教会聖人とされた。
作品は3部45曲からなる。第1部はムニェルニーク城の中庭で、人々が女神バーバの像の建立祭に沸いているところへキリスト教の伝道僧イヴァンが現れ、雷を起こしてバーバの像を打ち砕き、唯一神への信仰を説く。人々が恐れおののく中、ルドミラはイヴァンの言葉に惹かれてゆく。第2部でルドミラはイヴァンの山の隠れ家を訪ね、キリスト教へ帰依することを誓う。そこへボジヴォイが狩の帰りに通りかかる。イヴァンは獲物であった牝鹿を生き返らせる。ボジヴォイは驚き、さらに傍らのルドミラの美しさに惹かれ、キリスト教を受け容れる。第3部はモラヴィアのヴェシフラト大聖堂での洗礼の場面。新婚のボジヴォイとルドミラが洗礼を受け、民衆はこれを祝福して、こぞってキリスト教に帰依する。

歌曲

歌曲集「糸杉」 (Cypřiše) B.11
1865年、音楽の家庭教師を務めていたヨゼフィーナ・チェルマーコーヴァーに恋愛感情を抱くが、失恋した想いから生まれた歌曲集。モラヴィアの詩人グスタフ・プレガー=モラフスキーの詩集「糸杉」に付曲したもので、18曲から成る。このままの形での出版はなされなかったが、後に手を加えて「4つの歌曲」作品2、B.124、歌曲集「愛の歌」作品83、B.160に分けて全12曲が出版された。また、12曲が1887年に弦楽四重奏のための「糸杉」として編曲されており、作曲者がこの歌曲集に深い愛着を持っていたことが分かる。
モラヴィア二重唱曲集 (Moravské dvojzpěvy) 作品32、B.60, 62
全13曲【1. あんたから逃げて / 2. 小鳥よ、飛んで行け / 3. 大鎌が研ぎすまされていたら / 4. 仲良く出会ったのだから / 5. スラヴィーコフの小さな田畑 / 6. かえでの樹にとまる鳩 / 7. 小川と涙 / 8. へりくだる娘 / 9. 指輪 / 10. 青くなれ、青く / 11. 捕らわれた娘 / 12. 慰め / 13. 野ばら】
ドヴォルザークはプラハの裕福な商人ヤン・ネフに1873年からピアノの教師として雇われていたが、ある日レッスンの後に家族で歌うための二重唱曲を作曲してほしいとの依頼を受けた。初めの依頼は、1860年に編まれた「モラヴィア民謡集」の何曲かに重唱パートと伴奏をつけてほしいというものであったが、ドヴォルザークはこれに満足できず、民謡集から詩だけを採って新たな二重唱曲を作曲した。1875年3月から翌年の7月半ばまでに作曲を行い、この年のクリスマス前に再構成を施して現在の形とした。
この曲集は、オーストリア政府の国家奨学金審査のための応募作品として提出され、審査員であったブラームスの目に留まった。ブラームスは出版社ジムロックにドヴォルザークを紹介し、1878年にこの作品が出版されると大好評を博し、「スラヴ舞曲」第1集の作曲依頼へとつながる。ドヴォルザークが作曲家としての名声を得る端緒となった作品である。
のちにレオシュ・ヤナーチェクがこの中から7曲を選んで混声四部合唱に編曲している。
歌曲集「ジプシーの歌」 (Cigánské melodie) 作品55、B.104
全7曲【1. 私の歌が鳴り響く / 2. さあ聞けよトライアングルを / 3. 森は静かに / 4. 我が母の教えたまいし歌 / 5. 弦の調子を合わせて / 6. 軽い亜麻の服を着て / 7. 鷹は自由に】
ボヘミアの詩人アドルフ・ヘイドゥークの詩をドヴォルザーク自身がドイツ語に訳して付曲した1880年の作品。ウィーンで活躍していたボヘミア出身の歌手グスタフ・ヴァルターを念頭に作曲された。原稿の楽譜では、ドイツ語の歌詞とチェコ語の歌詞が併記されている。
第4曲「我が母の教えたまいし歌」は、この曲集においてのみならずドヴォルザークが作曲した歌曲中で最も有名な作品。その他この曲集には、伴奏部にツィンバロムトライアングルの響きを模した音型が登場する曲も含まれている。
歌曲集「愛の歌」 (Písně milostné) 作品83、B.160
全8曲【1. ああ、私たちの愛は / 2. 多くの人の心に死がはびこり / 3. あの家の周りをさまよい歩く / 4. 私は甘いあこがれにひたる / 5. この地にさわやかな西風が吹き / 6. 森の中の川辺に / 7. あなたの優しいまなざしに / 8. かけがえのない愛しい人】
前述の通り、歌曲集「糸杉」の中の8曲(第8、3、9、6、17、14、2、4曲)を1888年に加筆修正したもの。
聖書の歌 (Biblické písně) 作品99、B.185
全10曲【1. 黒雲と暗闇が主のまわりにあり / 2. 御身はわが隠れ家 / 3. 神よ、わが祈りを聞きたまえ / 4. 主はわが牧者 / 5. 神よ、神よ、新しい歌を歌わん / 6. おお神よ、わが願いを聞きたまえ / 7. バビロン川のほとりで / 8. 主よ、われを顧みたまえ / 9. 山に向かいてわれは目を上げ /10. 主に向かいて新しき歌を歌え】
1894年3月の作品。16世紀のクリチカのチェコ・プロテスタント聖書による。アメリカに滞在していたドヴォルザークは、前年からこの年にかけて、グノーチャイコフスキーハンス・フォン・ビューローと相次いで偉大な音楽家の訃報に接した。さらにこの年には父親の病状が悪化しており、この歌曲集完成の直後3月28日に亡くなっている。ドヴォルザークは元来信仰心の厚い人物であったが、これらの訃報に接して一層敬虔な気持ちになり、聖書に基づく歌曲集の作曲を行ったものと推測されている。
ドヴォルザークは1895年にこの曲集のうち5曲を管弦楽伴奏版に編曲し、残りの曲も1914年にチェコ・フィルハーモニー管弦楽団の指揮者であったツェマーネクの手で編曲されており、管弦楽伴奏で歌われることもある。また、バリトン歌手ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウがドイツ語訳した歌詞で歌われることもある。

その他

賛歌「白山(ビーラー・ホラ)の後継者たち」 (Hymnus: Dědicovebílé hory) 作品30、B.27
1872年5月ころから6月3日にかけて作曲された合唱と管弦楽のための作品。ヴィーチェスラフ・ハーレク英語版の詞による愛国的讃歌である。1873年3月9日に学生時代からの親友カレル・ベンドルの指揮によってプラハで初演されるや大評判となり、それまでほとんど無名に近かったドヴォルザークはプラハの音楽界で名声を得ることとなった。作品はこの後1880年1884年と2度にわたり改訂されている。
作品は2つの部分からできている。第1部は白山の戦いに敗れ、祖国独立がならなかったことを嘆き悲しむ歌、第2部では自由のための闘争への忠誠と勇気を歌う。第2部に「フス教徒」のコラールに似た主題が英雄の主題として用いられている。

歌劇

ドヴォルザークには11作の歌劇があるが、このうち、『王様と炭焼き』第1作と第2作とは同じ台本に全く異なった曲をつけた極めてまれな作品である。チェコ語というハンディがある上に台本自体が優れたものでなかったせいもあって、国際的に高い評価を得て上演が繰り返されているのは第10作の「ルサルカ」だけで、他の作品の上演を目にすることは極めてまれである。また、同じくメロディー・メーカーとして天才であったシューベルトが、やはり歌劇の分野ではその才能を発揮できなかったことを考え合わせると興味深い。スケッチのみの歌劇も4つ残されている。

アルフレート (Alfred) B.16
1870年作曲、1938年12月10日初演(オロモウツ[11]。台本は、K.T.ケルナー。序曲のみ「劇的序曲」(旧作品1)として出版。
王様と炭焼き (Král a uhlíř) B.21(第1作)
1871年作曲。1929年5月28日初演(プラハ)。台本はB.J.ロベスキー。
王様と炭焼き英語版 (Král a uhlíř) B.42(第2作)、作品14、B.151(第3作)
1874年作曲、1887年改訂(第3作)。B.21と同じ台本に全く違う音楽をつけたもの。第3作は第2作の改訂版、台本の改訂に伴い第3幕を新しい音楽に書き換えた。第2作の初演は1874年11月24日。第3作の初演は1887年6月15日、ともにプラハ。台本B.J.ロベスキー。第3作の台本改訂はV.J.ノヴォトニーによる。
がんこな連中英語版(Tvrdé palice) 作品17、B.46
1874年作曲。1881年10月2日初演(プラハ)。台本はJ.シュトルバ。
プルジェデフラ・ヴァンダ英語版 (Předehra Vanda) 作品25、B.55
1875年作曲、1876年4月17日初演(プラハ)。J.スルジツキのポーランド語の原作をザグレイス師とV.ベネシュ=シュマウスキが訳、脚本化。
いたずら農夫英語版 (Šelma sedlák) 作品37、B.67
1877年作曲。1878年1月8日初演(プラハ)。台本はJ.O.ヴェセリー。
ディミトリー英語版 (Dimitrij) 作品64
1881年 - 1882年作曲、1883年・1894年改訂。1882年10月8日初演(プラハ)。台本はM.チェルヴィンコヴァー=リーグロヴァー。
ジャコバン党員英語版 (Jakobín) 作品84、B.159(第1稿)、B.200(第2稿)
3幕。第1稿はチェルヴィンコヴァー=リーグロヴァーの台本により、1887年11月から1888年11月に作曲され、1889年2月12日にプラハ国民劇場で初演された。その後、1897年2月から12月に改訂された。この改訂では台本も、作者とその父親で有力な政治家でもあったF.L.リーゲルとによって修正されている。これが第2稿として別のB番号を与えられた。第2稿の初演は1898年6月19日、プラハ国民劇場にて。
18世紀末、ボヘミアの田舎の村が舞台。ボヘミアの伯爵ハラソフの息子ボフシュは陰謀によって故郷を逐われるが、この亡命中に革命直後のフランスを見聞きし、数年後妻ユリエとともに帰郷する。しかしハラソフの家を乗っ取ろうと画策していた甥にジャコバン党員だとの中傷を流され、投獄されてしまう。妻は、夫の恩師で村のカントルを務める友人ベンダの助けを借り、村の人々とともに甥の陰謀を暴き、夫の名誉と地位を回復する。
悪魔とカーチャ (Čert a Káča) 作品112、B.201
3幕。台本は有名なおとぎ話に基づきアドルフ・ヴェニクが作成した。この台本は元々国民劇場主催の台本コンクールに提出し、入賞した作品であった。1898年5月から1899年2月にかけて作曲され、1899年11月23日にプラハの国民劇場で初演された。
無慈悲で傲慢な女領主の圧政で疲弊した村へ、間抜けで臆病な悪魔マルブエルがその女領主を引き立てにやってくる。しかしマルブエルは途中で村娘のカーチャを見初め地獄へ誘い、連れて行く。ところがカーチャは村一番のおしゃべりで、マルブエルにつきまとって散々な目に遭わせる。マルブエルが閉口しているところへ羊飼いのイルカがやって来る。イルカはカーチャを連れて帰るというので地獄は宴会となり、この間にイルカとカーチャは村に戻る。村に帰ったイルカは、女領主に悪魔が地獄へ引き立てにやってくると知らせ、悪魔を撃退する代わりに農民の待遇改善と民主化を約束させる。やがてマルブエルがやってくると、イルカはその耳元で、カーチャがお前のことにひどく腹を立てていると脅す。そこへカーチャがやってきたのを見てマルブエルは慌てて逃げ出す。この功績でイルカは新しい民主政府の筆頭顧問官に任命され、人々は大喜びとなる。
ルサルカ (Rusalka) 作品114、B.203
3幕。ヤロスラフ・クヴァピルの台本により1900年4月から11月に作曲され、1901年3月31日にプラハ国民劇場で初演された。第1幕でルサルカが歌う「月に寄せる歌」は単独で歌われることも多い美しいアリアである。
ルサルカは、森の奥にある湖に住む水の精。ある日人間の王子に恋をし、魔法使いイェジババに人間の姿に変えてもらう。ただし、人間の姿の間はしゃべれないこと、恋人が裏切った時にはその男とともに水底に沈む、というのがその条件であった。美しい娘になったルサルカを見た王子は彼女を城に連れて帰り、結婚する。しかしその祝宴でも口をきかないルサルカを冷たい女だと不満に思った王子は、祝宴にやってきた外国の王女に心を移してしまう。祝宴の中、居場所をなくしたルサルカが庭へ出ると、水の精によって池の中に連れ込まれてしまう。王子は恐怖のあまり王女に助けを求めるが王女は逃げ去る。森の湖へ移されたルサルカに魔法使いは、元の姿に戻すには裏切った男の血が必要だと語り、ナイフを渡す。ルサルカは王子を殺すことはできないとナイフを捨ててしまう。ルサルカを探して王子が湖にやってくる。そこで彼は妖精達から自分の罪を聞かされ、絶望的にルサルカを呼ぶ。王子はルサルカに抱擁と口づけを求める。それは王子に死をもたらすのだとルサルカは拒むが、王子は「この口づけこそ喜び、幸いのうちに私は死ぬ」と答える。ルサルカはもはや逆らうことをやめ、王子を抱いて口づけ、暗い水底へと沈んでゆく。
アルミダ英語版 (Armida) 作品115、B.206
1902-03年作曲、1904年3月25日初演(プラハ)。トルクァート・タッソの『解放されたエルサレム』をJ.ヴルフリツキーが台本化。

編曲

スケッチ、断片、その他

  • ポルカ B.300(消失)
  • ピアノ小品 B.407a / 407b
  • 戦争序曲 B.414(スケッチ)
  • オラトリオ 「ヨハネの黙示録」 B.432(スケッチ)

  1. ^ アントニン・ドヴォルジャーク - 音楽人物辞典 - 楽器解体全書PLUS - ヤマハ株式会社
  2. ^ 日本チェコ友好協会-ドヴォジャークの会
  3. ^ a b 内藤久子『作曲家別名曲解説ライブラリー 6 ドヴォルザーク』p.12
  4. ^ 内藤久子『作曲家◎人と作品シリーズ:ドヴォルジャーク』p.71
  5. ^ 内藤久子『作曲家◎人と作品シリーズ:ドヴォルジャーク』pp.71-72
  6. ^ 内藤久子『作曲家◎人と作品シリーズ:ドヴォルジャーク』p.27
  7. ^ 渡辺學而『リストからの招待状 大作曲家の知られざる横顔II』p.211
  8. ^ 内藤久子『作曲家◎人と作品シリーズ:ドヴォルジャーク』p.131
  9. ^ 内藤久子『作曲家◎人と作品シリーズ:ドヴォルジャーク』p.101
  10. ^ (2055) Dvorak = 1974 DB”. MPC. 2021年9月23日閲覧。
  11. ^ Supka, Ondrej. “Alfred”. Antonin-dvorak.cz. The Dvorak Society for Czech and Slovak Music. 2020年9月20日閲覧。






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