アウグスティン・フェルナンド・ムニョス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2010/07/13 18:36 UTC 版)
生涯
ムニョスはクエンカ県のタランコンに生まれた。父親はタバコ貿易の管理官、または政府が独占するタバコの販売を担当する役人だった。ムーニョスは王室の警護官に任命され、すぐに王妃マリア・クリスティーナを魅了した。ある同時代人によれば、彼は王妃が乗っていた馬が暴走した時にこれを止めて王妃の心を掴んだ。また別の同時代人によれば、彼は王妃の落としたハンカチを拾っただけで王妃を魅了したという。王妃の夫フェルナンド7世が1833年9月29日に亡くなると、ムニョスと王太后となったマリア・クリステーィナはすぐに極秘結婚した。夫妻は7人の子供をもうけたが、うち1人は夭折した。他の6人の子供たちは皆スペイン貴族に叙せられた。
- マリア・アンパロ(1834年 - 1864年)…ビスタ・アレグレ伯爵夫人、ヴワディスワフ・チャルトリスキ公爵と結婚
- マリア・デ・ロス・ミラグロス(1835年 - 1903年)…カスティレホ侯爵夫人
- アグスティン(1837年 - 1855年)…タランコン公爵
- フェルナンド(1838年 - 1910年)…リアンサレス公爵およびタランコン公爵
- マリア・クリスティーナ(1840年 - 1921年)…イサベラ侯爵夫人
- アントニオ・デ・パドゥア(1842年 - 1847年、夭折)
- ホセ(1846年 - 1863年)…グラシア伯爵およびラ・アルボレダ伯爵
この秘密結婚が知れれば、マリア・クリスティナは幼い長女イサベル2世女王の摂政の地位を追われることは必定であり、案の定ムニョスと王太后の関係は誰もが知るところとなった。1836年8月13日、王室の夏の宮殿であるラ・グランハ宮殿を警備していた兵士たちが暴動を起こし、摂政王太后に憲法を順守することを約束させたが、このとき兵士たちは躊躇する王太后に遵守を強要するため、彼女の夫ムニョスを人質にとって彼を射殺すると脅した、と一般の人々は信じた(これは実際には誤りである)。1840年、マリア・クリスティナは完全に立場を失い、ムニョスを伴って国外に退去し、同時に結婚していることを公表した。1843年、夫妻はバルドメロ・エスパルテロが失脚するとともにスペインに帰った。
1844年、マリア・クリスティナの長女イサベル2世女王は親政を開始すると、母の再婚に承認を与え、結婚を公的に完全なものとした。女王の継父であるムニョスはリアンサレス公爵に叙せられ、金羊毛騎士団騎士となった。またムニョスは女王の同母妹ルイサ・フェルナンダ王女の舅である、フランス王ルイ・フィリップからモン・モロ公爵位とレジョン・ドヌール勲章を受けた。
王太后が国内の革命運動によって1854年に最終的に国外に亡命するまで、ムニョスは鉄道管理権の運用と株取引で莫大な富を築いたと言われる。ムニョスには政治的野心は全くなく、エクアドルの王位につくよう打診されたが辞退している。当時の上流階級の人々は皆、ムニョスが優れた容貌をしているだけでなく、親切で上品な人物であることを認めていた。ムニョスは1873年、妻に先立ってル・アーヴル近郊のラドルスで没した。
参考文献
- この記述には、アメリカ合衆国内で著作権が消滅した百科事典『ブリタニカ百科事典第11版』本文を含む。
- 1 アウグスティン・フェルナンド・ムニョスとは
- 2 アウグスティン・フェルナンド・ムニョスの概要
- アウグスティン・フェルナンド・ムニョスのページへのリンク