モンゴルのセルビア・ブルガリア侵攻とは? わかりやすく解説

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モンゴルのセルビア・ブルガリア侵攻

(Mongol invasion of Bulgaria and Serbia から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/23 06:06 UTC 版)

モンゴルのセルビア・ブルガリア侵攻(モンゴルのセルビア・ブルガリアしんこう)とは、「バトゥの西征」(モンゴルのヨーロッパ侵攻英語版)のうち、バトゥカダアン率いるモンゴル軍がハンガリー王国クロアチアダルマチアボスニアを荒らした後、1242年の春にセルビア王国第二次ブルガリア帝国に侵攻した際に生じた諸戦闘の総称である。


注釈

  1. ^ 日本人モンゴル史研究者の杉山正明は、「バトゥの征西」の主目的が当初から「ルーシ・東欧」にあったとするのは近代のヨーロッパ優越史観に基づく誤解であって、本来の目的はキプチャク草原の遊牧勢力の統合にあったとする[5]。その上で、キプチャク人の長コチャン(コテン)・カンが4万の大集団を率いてハンガリーに向かったことが、「東欧遠征」の直接的な切っ掛けになったとする[6]
  2. ^ ルブルックの旅行記には、「ところで、マングカン(モンケ・カアン)は兄弟が8人ある。……アラブッカという名の同腹の末弟は自分のもとにおき、彼はキリスト教徒だった彼等の母親の幕営を有している。ヴィレルムス親方はその奴僕である。すなわち、父親からの兄弟の一人が親方をフンガリアのベレグラーウェという町で捕らえた……」とある[17]
  3. ^ ノガイがジョチ・ウルスの「右翼」に属することは『集史』に明記されるが、この「右翼」の実態については研究者によって意見が異なる。ジョチ・ウルス史研究者の赤坂恒明は、左翼=オルダ・ウルス、中央=バトゥ・ウルスとは別個に「右翼ウルス」が存在し、この「右翼ウルス」がヨーロッパ遠征の結果得た「新領土」こそドナウ川河口部一帯であったとする[30]
  4. ^ ノガイ諸子のバルカンでの活動についてはマムルーク朝の史家ヌワイリーの記述に詳しく、ヌワイリーはノガイの死亡後、ノガイの息子の間で内紛が起き、弟のテケを殺害したチュケが副官のトングズとともに「ワラキア人の国」を掠奪した上で「アスの国々(=ブルガリア)」に移住したと伝えている[34]

出典

  1. ^ 佐口 (1968), pp. 192–193.
  2. ^ a b Sophoulis (2015), p. 257.
  3. ^ Jackson (2005), p. 61.
  4. ^ Dimitrov (1997), p. 14.
  5. ^ 杉山 (2016), pp. 161–163.
  6. ^ 杉山 (2016), p. 165.
  7. ^ a b Giebfried (2013), p. 132.
  8. ^ 佐口 (1968), pp. 179.
  9. ^ Madgearu (2016), pp. 223–24.
  10. ^ Korobeinikov (2008), pp. 387–407.
  11. ^ a b Jackson (2005), p. 65.
  12. ^ a b c d e Sophoulis (2015), pp. 269–72.
  13. ^ Fine (1987), p. 145.
  14. ^ Curta (2006), pp. 412–14.
  15. ^ Fine (1987), p. 138.
  16. ^ a b c d e f g Madgearu (2016), pp. 228–35.
  17. ^ 高田 (2019), p. 259.
  18. ^ a b Sophoulis (2015), pp. 259–60.
  19. ^ Radičević (2012), p. 87.
  20. ^ Patsch (1993), p. 556.
  21. ^ a b Sophoulis (2015), pp. 272–73.
  22. ^ Giebfried (2013), p. 131.
  23. ^ Jackson (2005), p. 79, n. 55.
  24. ^ 佐口 (1968), p. 194.
  25. ^ Sweeney (1982), p. 183.
  26. ^ 高田 (2019), p. 207.
  27. ^ Jackson (2005), p. 103.
  28. ^ Rogers (1996), p. 21.
  29. ^ a b Vásáry (2005), p. 70.
  30. ^ 赤坂 (2005), pp. 133–136.
  31. ^ a b Jackson (2005), pp. 203–204.
  32. ^ Bruce Lippard, The Mongols and Byzantium, 1243–1341, Ph.D. dissertation, Indiana University, 1984, 194-195
  33. ^ Ciocîltan (2012), pp. 248–280.
  34. ^ 赤坂 (2005), pp. 178–180.


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