フーゴ・シュタインハウス
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フーゴ・シュタインハウス
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| Hugo Steinhaus | |
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1968年のシュタインハウス
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| 生誕 | Hugo Dyonizy Steinhaus 1887年1月14日 オーストリア=ハンガリー帝国、ヤスウォ |
| 死没 | 1972年2月25日(85歳没) ポーランド人民共和国、ヴロツワフ |
| 国籍 | ポーランド |
| 研究分野 | 数学 |
| 研究機関 | |
| 出身校 | |
| 博士論文 | Neue Anwendungen des Dirichlet'schen Prinzips[1] |
| 博士課程指導教員 | ダフィット・ヒルベルト |
| 博士課程指導学生 | |
| 主な業績 | バナフ–シュタインハウスの定理 |
| 主な受賞歴 | ステファン・バナフ賞 (1946) |
| プロジェクト:人物伝 | |
フーゴ・シュタインハウス(波: Hugo Dyonizy Steinhaus、ポーランド語: [ˈxuɡɔ ˈʂtajnxaws], 1887年1月14日 - 1972年2月25日 )は、ポーランドの数学者、教育者。ゲッティンゲン大学でダフィット・ヒルベルトのもとPhDを取得し、後にヤン・カジミェシュ大学で教鞭を執り、ルヴフ学派創立の一助を担った。ステファン・バナフを「発見」した人物であるとされ、バナフ–シュタインハウスの定理など関数解析学に著名な貢献を残した。第二次世界大戦後にはヴロツワフ大学数学科の設立および戦災に見舞われたポーランドの数学の復興において重要な役割を果たした。
シュタインハウスは170の科学論文・書籍を執筆し、関数解析学や幾何学、数理論理学、三角法のような数学の諸分野に多大な貢献を果たした。またゲーム理論と確率論の初期の創立者の一人と評価されている。
生い立ちと研究
1887年1月14日、オーストリア=ハンガリー帝国のヤスウォでユダヤ系に起源をもつ家庭に生まれた[2]。父ボグスワフ (Bogusław) は地元の実業家でレンガ工場を運営していた。母はエヴェリーナ・リプシッツ (Ewelina Lipschitz) である。おじに法律家のイグナツィ・シュタインハウスがいる[3]。
フーゴ・シュタインハウスは1905年にヤスウォのギムナジウムを卒業した。家族はシュタインハウスに技術者の道を歩むことを望んだが、シュタインハウスは抽象数学に惹かれ同時代の数学者の作品を学び始めた。1905年からレンベルク大学で哲学と数学を学んだ[3]。1906年、ゲッティンゲン大学へ移り1911年にダフィット・ヒルベルトの指導の下でPh.D.を取得した[2]。博士論文ではディリクレの原理の応用を研究した[1]。
第一次世界大戦の勃発で、シュタインハウスはポーランドに帰り、ユゼフ・ピウスツキ率いる軍隊に属した。第一次世界大戦後はクラクフに居住した[4]。
学術
戦間期
ポーランドの独立以前の1916年から1917年の間、シュタインハウスはクラクフで短命の傀儡国家であったポーランド王国の内務省に勤務した[6]。
1917年からシュタインハウスはレンベルク大学(後にポーランド下のヤン・カジミェシュ大学)で研究を始め、同大学で1920年にハビリタチオンを取得した[6]。1921年に准教授 (profesor nadzwyczajny) 、1925年に正教授 (profesor zwyczajny) となった[6]。この間に行われたルベーグ積分論の最先端の講義は、フランス国外にもたらされたルベーグ積分論の最初期の講義の一つであった[1]。
ルヴフにおいてシュタインハウスはルヴフ学派の設立の一助を担い[7]、カヴィアルニャ・シュコツカの数学者集団の中で活発に活動した。スタニスワフ・ウラムによれば、シュタインハウスはこの喫茶店よりも通りの先にあった高級な喫茶店を好んだという[4]。
第二次世界大戦
ドイツ国の侵攻とソヴィエト連邦の侵攻でポーランドは事実上消滅し、独ソ不可侵条約通りにルヴフはソヴィエト連邦に占領された。シュタインハウスはハンガリーに避難することも考えたものの、最終的にルヴフに残ることを決めた。ソヴィエト連邦はウクライナ色が強まるように大学を再編したが、数学科長にはシュタインハウスの生徒であるポーランド人のステファン・バナフが採用され、シュタインハウスも大学に留まった。さらに、ドイツの占領から逃れたポーランドの学者によって学科の教員が強化された。シュタインハウスはこの期間の経験から「ソヴィエトのあらゆる行政官、政治家、コミッサールらに抑えがたい肉体的嫌悪を抱いた」と述べている[注 1]。
戦間期およびソ連による占領の間、シュタインハウスはスコットランドの本(Księga szkocka, クシェンガ・シュコツカ)に10の問題を寄稿した。バルバロッサ作戦の一環で1941年にナチス軍によってルヴフが占領される少し前に、バナフのマッチ箱問題が寄稿された[4]。
ユダヤ系の出身であったシュタインハウスはナチスのポーランド占領から逃れる必要があった。最初はルヴフの友人の下で、次にオシチナやベルデフフといった小さな町で過ごした[7][8]。ポーランドの反独派が Grzegorz Krochmalny という以前亡くなった森林警備隊員の偽装文書を渡し、シュタインハウスは偽名で秘密裏に授業を行っていた(高等教育はナチス占領下のポーランドの教育においては禁止されていた)。ドイツに逮捕され即座に殺害される可能性を鑑みて、シュタインハウスは既存の教材を全く用いずして、記憶を頼りに再構築し、知っていた数学のすべてを記録した。また膨大な量の回顧録を書き留めたが、これらはほんの一部しか発表されていない[8]。
逃亡生活で戦況に関する信頼たる情報が遮断される中、シュタインハウスは地方紙に散発的に掲載された死亡記事に基づいて戦線におけるドイツ軍の死亡者数を自身で推定するための統計的手段を改善していた。戦死した人物が一男、二男、三男といった続柄であるという情報の相対的頻度を用いた[8]。
シュタインハウスの生徒で伝記の著者であるマレク・カーツによれば、シュタインハウスは、最も幸せであった日はドイツ軍がポーランドを撤退してソヴィエト軍がまだ到来していなかった24時間であったと述べた[8]。
終戦後
第二次世界大戦末期、シュタインハウスはルヴフ大学がポツダム協定でポーランド領となったブレスラウ(ヴロツワフ)に移転したことを知った(ルヴフ、リヴィウはウクライナ共和国、後にウクライナ領となった)。当初は疑念を抱いていたが、ウッチとルブリンからの招聘を断りヴロツワフ大学で教職に就いた[7]。ヴロツワフではクシェンガ・シュコツカの背景にある想いを復活させ、著名な数学者や若手数学者が興味深い問題と問題の解答に与える賞を書き記す Nowa Księga Szkocka(ノヴァ・クシェンガ・シュコツカ、Nowa はポーランド語で「新」の意)を始めた。戦時中、クシェンガ・シュコツカはシュタインハウスの手にあったとされ、その後スタニスワフ・ウラムに渡った。ウラムは英訳を施し、Scottish Book として発表した[4]。
シュタインハウスの功績で、ヴロツワフ大学はルヴフ大学と同様に数学で名を上げた[8]。
シュタインハウスはノートルダム大学 (1961–62) [4]、サセックス大学 (1966) で客員教授を務めた[9]。
数学
シュタインハウスは170を超える作品を著作した[4]。関数解析学の狭い範囲を専攻したバナフとは異なり、幾何学や確率論、三角級数やフーリエ級数の理論、数理論理学とさまざまな範囲に貢献を残した[1][4]。また、応用数学においても作品を残しており、工学者、地質学者、経済学者、物理学者、生物学者、あるいは(カーツによれば)「弁護士とでさえ」協力した[8]。
関数解析学への最も著名な功績の一つに1927年のバナフ–シュタインハウスの定理の証明がある。ステファン・バナフと共同して発表された。この定理は関数解析学の基本的な道具の一つとなっている。
ゲームに興味を持ったシュタインハウスはジョン・フォン・ノイマンが数年後に完全なものを構築することを期待して、戦略の形式的定義を早期に提案し、現代的なゲーム理論を築いた[6]。無限ゲームに関する理論の結果として、生徒のヤン・ミチェルスキとともに決定性公理を提案した[8]。
他の功績に、当時はまだ初期段階で数学の一部とは見なされていなかった、確率論への貢献がある[8]。コイントスの公理・測度論的記述を最初に明らかにし、ロシアの数学者アンドレイ・コルモゴロフの確率の公理化に影響を与えることとなった[8]。また、確率変数の連続一様分布の意味、2つの事象の独立の意味の正確な定義を最初に与えた[4]。
第二次世界大戦で隠伏していた間、シュタインハウスは公平ケーキ分割問題、すなわちいくつかの成分から構成されたものを、趣向の異なる数人が、それぞれの趣向に比例する量の分け前を受け取ることのできるように分割する問題について研究した[注 2]。
シュタインハウスはハムサンドイッチの定理を初めて予想した人物であり[8][10]、k平均法を提案した[11]。
遺物
シュタインハウスはクラクフの公園で誰かが「ルベーグ積分」と口にしたのを偶然聞いて、1916年にステファン・バナフを「発見」したといわれている。シュタインハウスはこれを自身の「数学における最大の発見」であると述べている[12]。バナフおよび公園でバナフと会話をしていたオットン・ニコディム、そしてシュタインハウスは後にクラクフ数学会を設立し、ポーランド数学会へと成長させた[4]。シュタインハウスはポーランド学術アカデミー、ポーランド数学会、ヴロツワフ科学会や、数多の科学会、科学アカデミーの会員に選出されていた[6]。
1921年、シュタインハウスは雑誌 Fundamenta Mathematicae の初の寄稿者の一人となった[13]。1929年、バナフとともに Studia Mathematica を創刊した。他に、Zastosowania matematyki (1953) , Colloquium Mathematicum, Monografie Matematyczne を創刊した[2]。
ワルシャワ大学(1958年)、ヴロツワフ医学アカデミー(1961年)、ポズナン大学(1963年)、ヴロツワフ大学(1965年)より名誉博士号を授与された[14]。
シュタインハウスは数多の言語を使いこなした。シュタインハウスの格言を集めた小冊子はポーランド語、フランス語、ラテン語で死後出版された[8]。
2002年、ポーランド科学アカデミーとヴロツワフ大学はシュタインハウスのポーランド及び世界の科学に対する貢献を称えるため、 "2002-Rok Hugona Steinhausa" を開催した[15]。
主な作品
- Czym jest, a czym nie jest matematyka (1923).[14]
- Sur le principe de la condensation de la singularités(バナフと共著、1927)[1]
- Theorie der Orthogonalreihen(ステファン・カツマジュと共著、1935).[1][16]
- Kalejdoskop matematyczny (1939).[1][14]
- Taksonomia wrocławska (1951).
- Sur la liaison et la division des points d'un ensemble fini (1951).[17] ブルーフカ法を再発見した。
- Sto zadań (1964).[4][18]
- Orzeł czy reszka (1961).[19]
- Słownik racjonalny (1980).[20]
家族
娘のリディア・シュタインハウス (Lidya Steinhaus) はヤン・コットと結婚した。
脚注
注釈
出典
- 1 2 3 4 5 6 7 Kac, Mark (1974). “Hugo Steinhaus--A Reminiscence and a Tribute”. The American Mathematical Monthly (Mathematical Association of America) 81 (6): 572–581. doi:10.2307/2319205. JSTOR 2319205. オリジナルの2011-09-27時点におけるアーカイブ。.
- 1 2 3 Foreword to "One hundred problems in elementary mathematics". Courier Dover Publications. (1974). p. 4. ISBN 978-0-486-23875-3
- 1 2 Official webpage of the town of Jasło (2010年). “Steinhaus Hugo Dyonizy”. Mieszkaniec: Steinhaus Hugo Dyonizy. Jasło. Moje miasto, nasz wspólny dom.. 2011年10月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年8月16日閲覧。
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 O'Connor, John J.; Robertson, Edmund F., “Hugo Dyonizy Steinhaus”, MacTutor History of Mathematics archive, University of St Andrews.
- ↑ Steven G. Krantz (2002). Mathematical Apocrypha: Stories and Anecdotes of Mathematicians and the Mathematical. Mathematical Association of America. p. 202. ISBN 9780883855393. "Steinhaus was an outspoken atheist."
- 1 2 3 4 5 Monika Śliwa (2010年5月4日). “Hugo Steinhaus”. University of Wrocław. 2011年10月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年8月25日閲覧。
- 1 2 3 Duda, Roman (2005). “Początki Matematyki w Powojennym Wrocławiu”. Przegląd Uniwesytetcki (Polskie Towarzystwo Matematyczne. Oddział Wrocławski) (September). オリジナルの2011-09-27時点におけるアーカイブ。 2011年8月17日閲覧。.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 Kac, Mark (1987). Enigmas of chance: an autobiography. University of California Press. pp. 49–53. ISBN 978-0-520-05986-3
- ↑ Chełminiak, Wiesław (2002年). “Wrocław Europy”. Wprost 2011年8月20日閲覧。
- ↑ Beyer, W. A.; Zardecki, Andrew (2004). “The early history of the ham sandwich theorem”. American Mathematical Monthly 111 (1): 58–61. doi:10.2307/4145019. JSTOR 4145019. ProQuest 203746537.
- ↑ Lindsten, Frederik; Ohlsson, Frederik; Lennard, Ljung (2011). “Just Relax and Come Clustering. A Convexification of k-means Clustering”. Technical Report from Automatic Control at Linköpings Universitet (Linköping University): 1.
- ↑ Feferman, Anita Burdman; Feferman, Solomon (2004). Alfred Tarski: life and logic. Cambridge University Press. p. 29. ISBN 978-0-521-80240-6
- ↑ Kuratowski, Kazimierz; Borsuk, Karol (1978). “One Hundred Volumes of Fundamenta Mathematicae”. Fundamenta Mathematicae (Polish Academy of Science) 100: 3.
- 1 2 3 “Prof. Hugo Steinhaus”. Wrocław University of Technology. 2011年9月2日閲覧。
- ↑ Aleksander Weron (2002年1月4日). “2002-Rok Hugona Steinhausa (2002 - Year of Hugo Steinhaus)”. Politechnika Wrocławska. 2011年8月26日閲覧。
- ↑ Stefan Kaczmarz; Hugo Steinhaus (1951). Theorie der Orthogonalreihen. Chelsea Pub. Co. 2011年9月2日閲覧。
- ↑ Steinhaus (1951年). “Sur la liaison et la division des points d'un ensemble fini”. Polish Virtual Library of Science - Mathematical Collection. 2011年9月2日閲覧。
- ↑ Steinhaus, Hugo (1974). One hundred problems in elementary mathematics. Courier Dover Publications. ISBN 978-0-486-23875-3
- ↑ Steinhaus, Hugo (1961) (ポーランド語), Orzeł czy reszka, I, Warszawa : Państwowe Wydaw, OCLC 68678009
- ↑ Steinhaus, Hugo (1980) (ポーランド語), Słownik racjonalny, I, Zakład Narodowy im. Ossolińskich, OCLC 7272718
参考文献
- Kazimierz Kuratowski (1980). A Half Century of Polish Mathematics: Remembrances and Reflections. Oxford: Pergamon Press. pp. 173–79
- Hugo Steinhaus (1951). Mathematical Snapshots (2 ed.). Oxford: blurb
関連項目
外部リンク
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