アドルフ・フリードリヒ1世 (メクレンブルク公)とは? わかりやすく解説

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アドルフ・フリードリヒ1世 (メクレンブルク公)

(Adolphus Frederick I から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/29 00:37 UTC 版)

アドルフ・フリードリヒ1世
Adolf Friedrich I.
メクレンブルク=シュヴェリーン
在位 1592年 - 1628年
1631年 - 1658年

出生 (1588-12-15) 1588年12月15日
神聖ローマ帝国
メクレンブルク=シュヴェリーン公領、シュヴェリーン
死去 (1658-02-27) 1658年2月27日(69歳没)
神聖ローマ帝国
メクレンブルク=シュヴェリーン公領、シュヴェリーン
配偶者 アンナ・マリア・フォン・オストフリースラント
  マリア・カタリーナ・フォン・ブラウンシュヴァイク=ダンネンベルク
子女 本文参照
家名 メクレンブルク家
父親 メクレンブルク=シュヴェリーンヨハン7世
母親 ゾフィー・フォン・ホルシュタイン=ゴットルプ
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アドルフ・フリードリヒ1世(ドベラーン修道院)

アドルフ・フリードリヒ1世(Adolf Friedrich I., 1588年12月15日 - 1658年2月27日)は、メクレンブルク=シュヴェリーン公(在位:1592年 - 1628年1631年 - 1658年)。1634年から1648年にかけて、シュヴェリーン大司教区も管理者として統治した。

生涯

アドルフ・フリードリヒはメクレンブルク=シュヴェリーンヨハン7世とゾフィー・フォン・ホルシュタイン=ゴットルプの息子である。

1592年3月22日に父ヨハン7世が死去したため、叔父ウルリヒ3世およびカール1世の後見のもとシュヴェリーン公領を継承した。アドルフ・フリードリヒは宮廷長であり腹心でもあったザムエル・フォン・ベーアに伴われ、1606年から1607年にかけてスイスとフランスを巡るグランド・ツアーに出かけ、これに関してはアドルフ・フリードリヒ自身の手による旅行日記に記されている[1]。アドルフ・フリードリヒは1608年4月16日に皇帝より成人を宣言され、弟のヨハン・アルブレヒト2世と共同でシュヴェリーン公領を統治し、1610年7月22日にカール1世が死去してからはギュストロー地方も統治した。1621年に公領を分割した際に、アドルフ・フリードリヒはシュヴェリーンを手に入れた。

アドルフ・フリードリヒとヨハン・アルブレヒト2世は1623年にニーダーザクセンの防衛同盟に参加し、戦争では中立を保とうと努めたが、密かにデンマーク王クリスチャン4世を支援したため、ルッターの戦いにおける勝利後はティリー指揮下の帝国軍から敵とみなされた。

1628年1月19日、皇帝フェルディナント2世はボヘミアのブランダイス城で文書を発行し、アドルフ・フリードリヒを公位から退位させ、最初は担保としてヴァレンシュタインをメクレンブルク公とし、1629年6月16日には世襲の地位とした。1628年5月、ヴァレンシュタインに促されてアドルフ・フリードリヒらは領地を離れ、1631年5月にヴァレンシュタインが打倒された後にスウェーデン軍の援助を得て帰国した。このために、アドルフ・フリードリヒらは暫定的にヴィスマールペール島、およびノイクロスターとヴァーネミュンデをスウェーデンに割譲しなければならなかったが、ヴァーネミュンデを除く領地の一部は1648年のヴェストファーレン条約により最終的に割譲されたのに対し、アドルフ・フリードリヒはシュヴェリーンおよびラッツェブルクの司教区と聖ヨハネ騎士団のミロー領を手に入れた。

メクレンブルクはアドルフ・フリードリヒの治世の間、三十年戦争に大いに苦しめられた。スウェーデン軍と帝国軍の両方が領地を荒廃させ、人口は約30万人から約5万人に減少した[2]

アドルフ・フリードリヒは、「der Herrliche」という名で実りを結ぶ会の会員をつとめた。

1631年以降、吐酒石の発見者アドリアン・フォン・マインジヒトは主治医としてアドルフ・フリードリヒに仕えた[3]

結婚と子女

アドルフ・フリードリヒ1世には2度の結婚で19人の子供がおり、そのうち12人が成人した。

1622年、オストフリースラント伯エンノ3世(1563年 - 1625年)の娘アンナ・マリア(1601年 - 1634年)と結婚し、以下の子女をもうけた。

  • クリスティアン・ルートヴィヒ1世(1623年 - 1692年) - メクレンブルク=シュヴェリーン公
  • ゾフィー・アグネス(1625年 - 1694年) - 1654年にリューン女子修道院長
  • カール(1626年 - 1670年) - メクレンブルク=ミロー公
  • アンナ・マリア(1627年 - 1669年) - 1647年にザクセン=ヴァイセンフェルス公アウグストと結婚
  • ヨハン・ゲオルク(1629年 - 1675年) - メクレンブルク=ミロー公
  • グスタフ・ルドルフ(1632年 - 1670年) - メクレンブルク=シュヴェリーン公

1635年にブラウンシュヴァイク=ダンネンベルク公ユリウス・エルンスト(1571年 - 1636年)の娘マリア・カタリーナ(1616年 - 1665年)と結婚し、さらに子供をもうけた。

  • ユリアネ・ジビッレ(1636年 - 1701年) - 1695年3月9日にリューン女子修道院長
  • フリードリヒ1世(1638年 - 1688年) - メクレンブルク=グラーボウ公
  • クリスティーネ(1639年 - 1693年) - 1681年にガンダースハイム女子修道院長
  • マリー・エリーザベト(1646年 - 1713年) - 1705年にリューン女子修道院長、1712年にガンダースハイム女子修道院長
  • アンナ・ゾフィー(1647年 - 1726年) - 1677年にヴュルテンベルク=ユリウスブルク公ユリウス・ジークムント(1653年 - 1684年)と結婚
  • アドルフ・フリードリヒ2世(1658年 - 1708年) - メクレンブルク=シュトレーリッツ

脚注

  1. ^ Andrea Voß: Ein Reisebericht als Schreibübung: Das Reiseverzeichnis des Adolf Friedrich I. von Mecklenburg (1606–1607), in: dies.: Reisen erzählen. Erzählrhetorik, Intertextualität und Gebrauchsfunktionen des adligen Bildungsreiseberichts in der Frühen Neuzeit, Heidelberg: Winter 2016 (= Neue Bremer Beiträge, 20), ISBN 978-3-8253-6591-2, pp. 198–213.
  2. ^ Ludwig Fromm (1875), “Adolf Friedrich I., Herzog von Mecklenburg-Schwerin” (ドイツ語), Allgemeine Deutsche Biographie (ADB), 1, Leipzig: Duncker & Humblot, pp. 119–120 
  3. ^ August Hirsch (1886), “Mynsicht, Adrian von” (ドイツ語), Allgemeine Deutsche Biographie (ADB), 23, Leipzig: Duncker & Humblot, pp. 145–146 
先代
ヨハン7世
メクレンブルク=シュヴェリーン
1592年 - 1628年
次代
ヴァレンシュタイン
先代
ヴァレンシュタイン
メクレンブルク=シュヴェリーン
1631年 - 1658年
次代
クリスティアン・ルートヴィヒ1世



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