長野電鉄モハ1100形電車
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長野電鉄モハ1100形電車(ながのでんてつモハ1100がたでんしゃ)は、長野電鉄が従来在籍した木造車の鋼体化改造によって1961年(昭和36年)に導入した電車(制御電動車)である[1]。
注釈
- ^ 同台車について「UD-16」と記載する文献も存在する[7][8]。
- ^ 帝國車輛工業UD-26は関西急行鉄道が1942年(昭和17年)と1944年(昭和19年)に合計10両を製造したモ6311形に同じ形式の台車が装着されたことが知られており[9]、これら10両分のUD-26は1959年(昭和34年)の伊勢湾台風とそれに伴う近鉄名古屋線の改軌工事スケジュールの前倒しで全数が改軌改造工事を施工されることなく新製のシュリーレン式円筒案内台車である近畿車輛KD-32B・KD-32Cに交換され、同様に台車交換で余剰となった日本車輌製造D16・D16B・D18といった狭軌用釣り合い梁式台車各種とともに、幾つかの私鉄へ売却されたとされる[10]。このため、台車交換時期や同時期の他社での同系台車の保有状況を考慮すると、これらは近鉄名古屋線改軌で不要となり、放出された台車である可能性が高い。1961年4月に実施された「鉄道ピクトリアル」誌愛読者代表の甲信越地区座談会席上で、参加者の一人であった長野電鉄社員の小林宇一郎は鋼体化1100形について「台車は近鉄名古屋線に使っていた帝車のUD-26を使うことになった」と語っている(「鉄道ピクトリアル」1961年10月号 p63)。
- ^ 当時の主力車両であったモハ1000形・モハ1500形はいずれも全長17m級の車体を備える[7]。
- ^ 従来在籍した車両(荷物合造車を除く)の1両当たりの定員が100 - 120人であったのに対し、モハ1100形・クハ1150形は140人と最大で4割の収容力増加が図られていた[7]。
- ^ 架線電圧600Vの渥美線における使用時、端子電圧600V時定格出力110kWを公称し、歯車比は2.56 (64:25) である[8]。
- ^ 国鉄制式機種であるPS13パンタグラフの払い下げを受け、搭載した[8]。
- ^ 自動車用部品を活用した豊橋鉄道独自の前照灯で、150Wのシールドビーム2灯を角型のケースに収めたものを、従前の前照灯を撤去の上で同じ箇所へ設置した[8]。
出典
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 「私鉄車両めぐり(49) 長野電鉄」 p.169
- ^ a b c d 『私鉄買収国電』 pp.79 - 86
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 『RM LIBRARY86 長野電鉄 マルーン時代』 p.41
- ^ a b c d e 『RM LIBRARY86 長野電鉄 マルーン時代』 p.32
- ^ a b c d e f g 『RM LIBRARY86 長野電鉄 マルーン時代』 p.40
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『RM LIBRARY86 長野電鉄 マルーン時代』 pp.46 - 47
- ^ a b c d e f g h i 『世界の鉄道'76』 pp.158 - 159
- ^ a b c d e f g h i j 「豊橋鉄道に期待のルーキー 長電から移籍の1810形が登場」(1979) p.123
- ^ 『近鉄旧型電車形式図集』 p.177
- ^ 『車両発達史シリーズ2』 p.97
- ^ a b c d 「鉄道車両の許認可制度 - 鉄道史を調べる人のために -」(2006) p.57
- ^ a b c d 「伊予鉄道」(1989) p.160
- ^ a b 『ローカル私鉄車輌20年 西日本編』 pp.169 - 171
- ^ 『ローカル私鉄車輌20年 西日本編』 p.65
- ^ a b 『ローカル私鉄車輌20年 西日本編』 pp.186 - 188
- 1 長野電鉄モハ1100形電車とは
- 2 長野電鉄モハ1100形電車の概要
- 3 主要機器
- 4 運用
- 5 他社への譲渡後
- 6 脚注
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