豊田政幹
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豊田 政幹(とよだ まさもと)は、平安時代中期の武将。名の表記は将基とされることもある。
21世紀現在の茨城県下妻市宗道の近辺の住人で[2]、赤須四郎を称した[1][注 1]。
経歴
前九年の役
前九年の役さなかの天喜4年(1056年)7月下旬、源頼義が安倍頼時・貞任父子の討伐を決意したとき、政幹は豊田郡の兵を率いて参陣した[1]。阿武隈川の渡河戦では政幹が副将を務め、先陣を切った[1]。
天喜5年(1057年)11月の黄海の戦いで、政幹の豊田兵は寒さと食糧不足に苦しめられ、頼義の本軍ともども敗走したが、源義家の善戦によって挽回した[1]。
康平5年(1062年)9月6日、貞任が陣を構えた衣川の関の攻略においても、副将政幹の豊田兵が先陣であった[3]。
乱の平定後、戦功により豊田郡の領主となった政幹は、豊田城を築いたほか、低湿地帯を開拓して豊田荘を営み、豊田四郎を称した[3]。さらに石毛(石下)にも館を構えたので、石毛荒四郎将基とも呼ばれた[3]。
後三年の役
永保3年(1083年)に後三年の役が始まると、恩義のある源義家を支援するため、政幹は豊田兵を率いて長期戦を繰り広げるが、兵糧は豊田の軍夫が運ばねばならなかった[4]。
脚注
注釈
出典
- ^ a b c d e 水海道市史 上 1983, p. 153.
- ^ a b 水海道市史 上 1983, p. 155.
- ^ a b c 水海道市史 上 1983, p. 154.
- ^ 水海道市史 上 1983, p. 156.
参考文献
- 『水海道市史』 上巻、水海道市、1983年3月30日。
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