許田正升とは? わかりやすく解説

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許田正升

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/11 02:30 UTC 版)

許田筑登之正升(きょだ ちくどぅん せいしょう、乾隆30年〈1765年〉12月26日 - 嘉慶18年 〈1813年〉 12月16日)は、琉球王国の官人。名護間切許田地頭職。唐名は郭開緒、童名は百歳金。許田筑登之。もとの名は正政であったが、「成」と「政」の字が禁字とされたため、のちに「升」に改名した。

生涯

乾隆43年(1778年)9月19日、名護間切許田地頭職に任ぜられる。翌年の乾隆44年(1779年)10月15日には、成人儀礼である欹髻を結った。

嘉慶2年(1797年)12月12日には筑登之座敷に叙せられた。さらに、尚灝王の治世である嘉慶13年(1808年)12月1日には、給地御蔵筆者(御物城の筆録役)に任じられている。

最初の妻は湯氏照喜名筑登之親雲上兼典の娘眞牛であったが、のちに離別。後妻に平氏兼島筑登之親雲上景敷の娘思戸を迎えた。

嘉慶18年(1813年)12月16日死去。享年49。

系譜

  • 長女:眞蒲戸(乾隆55年〈1790年〉7月5日生)
  • 長男:正起(童名思龜、唐名郭作霖。嘉慶4年(1799年)7月28日生。母は平氏思戸。室は薛氏比嘉筑登之賀寳の女・眞加戸。嘉慶18年(1813年)8月15日、欹髻を結う。道光5年(1825年)12月1日、筑登之座敷に叙される。)
    • 長男:正興(童名松金、唐名郭文鳳。道光2年〈1822年〉11月5日生。母は薛氏眞加戸)
    • 長女:眞鶴(道光5年〈1825年〉11月5日生)
  • 次男:正孫(童名眞蒲戸、唐名郭作楫。嘉慶7年(1802年)1月6日生。母は平氏思戸。)
  • 三男:正賀(童名眞三良、唐名郭作梅。嘉慶9年(1804年)10月2日生。母は平氏思戸。嘉慶24年(1819年)12月15日、欹髻を結う。)
  • 次女:眞呉勢(嘉慶12年〈1807年〉7月17日生)

参考文献




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