田中秀次郎とは? わかりやすく解説

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田中秀次郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/12 07:47 UTC 版)

田中 秀次郎
Hidejiro Tanaka
基本情報
国籍 日本
生年月日 (1910-01-01) 1910年1月1日[1]
身長 180cm (5 ft 11 in)[2]
キャリア情報
大学 東京帝国大学
代表歴
キャップ 日本 1936

田中 秀次郎(たなか ひでじろう、1910年1月1日[1] - 没年不詳[注釈 1])は、昭和戦前期に活動した日本バスケットボール選手1936年ベルリンオリンピックに出場し、バスケットボール日本代表チームの主将を務めた[4]

経歴

旧制成蹊高等学校(現在の成蹊中学校・高等学校)に学び、籠球部に所属[4]。当時の成蹊高校籠球部は好調な成績を残しており、1929年(昭和4年)、1930年(昭和5年)と全国高校選手権を連覇した[4]。1931年(昭和6年)には、第10回全日本選手権において[4][注釈 2]、決勝で早稲田大学を破り、高校チームが全国制覇をするという快挙を成し遂げた[4]。この際のメンバーに田中秀次郎が含まれる[4][3]。当時のあだ名は「デンチュー」であったという[4][3]

1931年(昭和6年)、成蹊高校を卒業して東京帝国大学を受験するも失敗[6]。田中は、井上陽一(成蹊OB)、畑龍雄(武蔵高校OB)ら同様に浪人となったバスケットボールプレイヤーらとともに「籠人クラブ」というクラブチームを作って明治神宮競技大会に出場し、優勝した[6]。籠人クラブのメンバーは翌1932年(昭和7年)に東京帝国大学に合格し、バスケットボール部で活躍することとなった[6]。1934年には第10回極東選手権競技大会(マニラ)に出場した[1]

東京帝国大学農学部を卒業後[2]、27歳で1936年ベルリンオリンピック日本代表メンバーとして選ばれ[2]、主将を務めた[4]。この際の代表チームには、東京帝大生の中江孝男鹿子木健日子も参加している[7][2]

脚注

注釈

  1. ^ 1995年時点で故人[3]
  2. ^ 成蹊高校籠球部員として試合に参加した井上陽一は、「日本籠球協会 が主催した第一回の全日本綜合選手権大会」であったとしている[5]

出典

  1. ^ a b c Hidejiro Tanaka”. Olympedia. 2023年7月12日閲覧。
  2. ^ a b c d 歴史部 2007, p. 10.
  3. ^ a b c 井上陽一 1995, p. 20.
  4. ^ a b c d e f g h 鹿子木基員 2018, p. 26.
  5. ^ 井上陽一 1995, p. 19.
  6. ^ a b c 鹿子木基員 2018, p. 27.
  7. ^ 日本選手第一号から1976モントリオール大会まで 淡青色のオリンピアンたち”. 東京大学. 2023年7月12日閲覧。

参考文献

関連項目

外部リンク




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