李瑾 (襄城伯)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 李瑾 (襄城伯)の意味・解説 

李瑾 (襄城伯)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/16 17:13 UTC 版)

李 瑾(り きん、生年不詳 - 弘治2年3月5日[1]1489年4月5日))は、明代軍人本貫和州

生涯

李隆の子として生まれた。正統14年(1449年)に兄の李珍が土木の変で死去すると、景泰元年(1450年)6月に後を嗣いで襄城伯に封じられた[2]成化3年(1467年)、四川の都掌の少数民族が反乱を起こすと、李瑾は征夷将軍の号を受け、総兵官としてその鎮圧にあたった。軍が永寧に到着すると、李瑾は軍を六路に分けて進めた。李瑾は程信とともに各部隊を統制し、反乱側の寨を全て撃破した。前後して4500人あまりを斬首し、多数の武器や家畜を鹵獲した。都掌の地を分割して、官治を建設して支配した。

成化4年(1468年)、凱旋すると、侯位に進んだ。成化22年(1486年)10月、太保の位を加えられた[2]

弘治2年3月癸亥(1489年4月5日)、死去した。芮国公に追封された。は壮武といった。

李瑾は兄の李璉の子の李鄌を養子としていた。李瑾が死去すると、実子の李黼が襄城伯を嗣いだが、李黼が弘治11年(1498年)に死去すると、李鄌が後を嗣いだ。

脚注

  1. ^ 『明孝宗実録』巻24 弘治二年三月癸亥条による。
  2. ^ a b 明史』功臣世表二

参考文献

  • 明史』巻146 列伝第34



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  李瑾 (襄城伯)のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「李瑾 (襄城伯)」の関連用語

1
李瑾 (襄城伯) 百科事典
90% |||||

2
李隆 百科事典
34% |||||

李瑾 (襄城伯)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



李瑾 (襄城伯)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの李瑾 (襄城伯) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS