明山賓とは? わかりやすく解説

明山賓

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/05 06:14 UTC 版)

明山賓(めい さんひん、443年 - 527年)は、南朝斉からにかけての官僚儒学者は孝若。本貫平原郡鬲県

経歴

明僧紹の子として生まれた。若いころから経史の学問に広く通じた。奉朝請を初任とした。斉の始安王蕭遙光に召されて撫軍行参軍となった。後に広陽県令となり、ほどなく官を去った。蕭衍建康を占領すると、山賓は召されて相府田曹参軍となった。梁国が建てられると、尚書駕部郎となり、治書侍御史・右軍記室参軍を歴任した。五経博士が置かれると、山賓はこれに選出された。北中郎諮議参軍を経て、昭明太子の侍読をつとめた。中書侍郎・国子博士・太子率更令・太子中庶子を歴任した。天監15年(516年)、持節・都督縁淮諸軍事・征遠将軍・北兗州刺史として出向した。普通2年(521年)、召還されて太子右衛率となり、給事中の位を加えられ、御史中丞に転じた。仕事上の失敗で黄門侍郎・司農卿に左遷された。普通4年(523年)、散騎常侍となり、青冀二州大中正を兼ねた。東宮が新たに学士を置くと、また山賓がこれに選出された。まもなく本官のまま国子祭酒を兼ねた。

普通5年(524年)、散騎常侍・二州大中正のまま、再び国子博士となった。この年、本官のまま仮節を受け、北兗州の行政を代行した。大通元年(527年)、死去した。享年は85。侍中・信威将軍の位を追贈された。は質子といった。

著書に『吉礼儀注』224巻、『礼儀』20巻、『孝経喪礼服義』15巻があった。

子女

伝記資料

  • 梁書』巻27 列伝第21
  • 南史』巻50 列伝第40




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