宝井琴凌
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宝井 琴凌(たからい きんりょう)は、講談師の名跡。当代は、四代目。
初代
文政11年(1828年)生まれ[1]。本名は岡田勝五郎[1]、のちに小金井勝五郎[1]。4代目宝井馬琴の父[1]。
弘化元年(1844年)2代目宝井馬琴に入門し、調窓を名乗る[1]。伊藤潮花や二代目伊東燕凌からも教えを受け、燕凌の薦めによって東流斎琴凌と改名する[1]。肥前松浦侯の屋敷に招かれて「赤穂義士銘々伝」の大高源吾を読んだことで評判となり、松浦侯から俳人の宝井其角にちなんだ「宝井」を名乗るように勧められ、宝井琴凌と再び改名する[1]。この頃、丸に梶の葉の定紋も与えられた[1]。安政元年(1854年)から安政4年(1857年)まで地方修行に出る[1]。安政5年(1858年)真打ちに昇進する[1]。明治2年(1869年)10月10日、死去[1]。
二代目(四代目宝井馬琴)
嘉永5年(1852年)12月26日、初代琴凌の実子として、江戸に生まれる[2]。本名は小金井三次郎[2]。
慶応2年(1866年)初高座、小琴凌と名乗る[2]。明治3年(1870年)初代西尾麟慶の門下となり、慶豐と名乗る[2]。のちに小麟慶、調窓を名乗る[2]。1875年、二代目宝井琴凌を襲名する[2]。1898年1月、四代目宝井馬琴を襲名する[2]。1909年、東京講談組合副頭取となる[2]。1925年、同職を辞任する[2]。1928年12月27日、死去[2]。
三代目
安政6年(1859年)12月、江戸に生まれる[1]。本名は森田半次郎[1]。1880年、二代目宝井琴凌に入門し、琴州と名乗る[1]。のちに琴梅と改める[1]。1898年、二代目宝井琴凌が四代目宝井馬琴を名乗ったことに伴って、三代目宝井琴凌を襲名する[1]。五代目宝井馬琴の名跡は、宝井琴鶴が継ぐこととなった[1]。これは琴鶴が四代目の死後に未亡人を引き取って面倒を見たからだという[1]。1936年3月4日、死去[1]。
四代目
四代目宝井琴凌の項目を参照。
出典
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