宜妃_(康熙帝)とは? わかりやすく解説

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宜妃 (康熙帝)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/02 09:55 UTC 版)

宜妃(ぎひ、? - 1733年)は、康熙帝の側室。満洲鑲黄旗の出身。姓はゴロロ(漢字:郭絡羅)氏。

経歴

佐領に任じられた武俠[1]のサングワムボー(三官保)の娘。妹は康熙帝の貴人。

康熙帝の後宮に入り、寵愛を受け、康熙16年(1677年)8月、宜嬪に封ぜられた。息子を3人産んだ。康熙20年12月(西暦で1682年)、宜妃に進んだ。

息子らは胤禛(後の雍正帝、康熙帝の四男)と不仲であり、宜妃も胤禛や徳妃(胤禛の母、後の孝恭仁皇后)に対して態度が傲慢であった。彼らは雍正帝の恨みを買い、康熙帝の葬儀で宜妃は雍正帝に責められた[2]。雍正帝の時代に宜妃の次男・胤禟が誅殺された上に、長男の胤祺も失意のうちに薨去した。胤祺の薨去の翌年(雍正11年癸丑8月25日)、宜妃は薨去した。

息子

  • 胤祺(恒親王)
  • 胤禟
  • 胤禌(1685年 - 1696年)

伝記資料

  • 『清聖祖実録』
  • 清史稿
  • 『永憲録』
  • 『欽定大清会典則例』

登場作品

  • テレビドラマ『康熙微服私訪記』

脚注

  1. ^ 『夜談隨録』巻3:三官保
  2. ^ 『国朝宮史』巻一 康熙61年11月29日雍正帝訓諭:天無二日、国無二主。今朕新即大位、凡事遵循典制、率由旧章。当年皇太后太皇太后礼何等整齊厳粛,衆母妃皆所睹悉。今聖母皇太后慈善謙遜、念旧情殷、不遽另行大礼、是聖母皇太后之礼。朕仰承聖母皇太后之意、尽心敬侍衆母妃、是朕之礼。大事方出、朕悲痛切至、心神恍惚、儀文所在未曾伝知。但衆母妃自応照前遵行国礼。即如宜妃母妃用人挟腋可以行走、則応与衆母妃一同行礼。或歩履艱難、随處可以挙哀。乃坐四人軟榻在皇太后前、与衆母妃先後摻雜行走、甚属僭越、于国礼不合。皇考未登梓宮前、倉猝之際、宜妃母妃見朕時、気度竟与皇太后相似、全然不知国体。此等處爾總管理当禀阻、乃并无一言道及、亦難免罪。朕若不伝、恐于国体乖違、所関重大。自伝之後、若仍前不改、定按国法治爾等之罪。

関連項目

  • 九龍奪嫡



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