圓頓寺 (岡崎市)
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| 圓頓寺 | |
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圓頓寺 鐘楼門
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| 所在地 | 愛知県岡崎市久右ヱ門町1-16 |
| 山号 | 清信山 |
| 宗派 | 日蓮宗 |
| 創建年 | 正保2年(1645年) |
| 開山 | 玄授院日惣 |
| 開基 | 水野忠善 |
| 文化財 | 紙本墨書法華題目抄(岡崎市指定文化財) |
| 公式サイト | 日蓮宗 清信山 圓頓寺 |
| 法人番号 | 2180305000064 |
座標: 北緯34度57分14秒 東経137度10分24秒 / 北緯34.9539度 東経137.1734度 圓頓寺(えんどんじ)は、愛知県岡崎市久右ヱ門町に所在する日蓮宗の寺院。山号は清信山(せいしんざん)。旧本山は妙傳寺(京都市)、勇師法縁に属する。円頓寺と表記されることもある。
概要
圓頓寺は江戸時代初期の正保2年(1645年)に、当時の三河岡崎藩主・水野忠善が、母・高松院(三浦為春の娘)の菩提を弔うために創建した寺院である。開山は玄授院日惣。以来、水野忠任まで七代にわたり、菩提寺として法燈を守り続けた。 宝暦12年(1762年)、水野家が肥前唐津(現在の佐賀県唐津市)に転封された際も、圓頓寺は岡崎の地に留まり、藩主家の供養を担い続けた。その後、明和6年(1769年)に、本多忠勝を始祖とする岡崎藩主本多忠粛が石州浜田(島根県浜田市)から岡崎に入部したことで、寺院の位置づけにも変化が生じた。 もともと本多家では、寛永8年(1631年)に播磨姫路藩主であった本多政朝が、法華信仰に篤い正室・浄光院(千代)のために、浄晃山成就寺(開山:常住院日近)という日蓮宗の寺院を創建していた。岡崎に残留していた圓頓寺は、この成就寺を看坊(兼務)する形で合流し、両寺の法燈が統合された。こうして現在の圓頓寺は、岡崎における日蓮宗の拠点寺院として継承されている。
建築と寺宝
境内は岡崎城下の久右エ門町に位置し、近世の町割を色濃く残す地域に佇む。昭和20年(1945年)7月20日の岡崎空襲により伽藍を焼失し、戦後に鐘楼門や旧本堂などが再建された。その後、昭和60年(1985年)に二重塔が境内に建てられ、平成7年(1995年)に現在の本堂が建立された。 堂内には本尊である一塔両尊四士と日蓮聖人像を祀る。戦災で焼失した境内の毘沙門堂には、本多康重が武運長久を祈願した毘沙門天像が安置されていた。この毘沙門天像は伝教大師作と伝わり、三河地方では最古とされ「草分毘沙門天」と称された。平成24年(2012年)には往時の木版をもとに再造され、再び堂内に祀られている。境内にある三光稲荷大明神は、岡崎東本陣(服部家)より移築されたものである。 寺宝の中でも特に重要とされるのが、日蓮筆と伝わる「紙本墨書法華題目抄」の断簡であり、昭和35年(1960年)3月10日に岡崎市指定文化財(書跡)に登録されている。法華題目抄は、日蓮が文永3年(1266年)正月に著した法華経の題目である「南無妙法蓮華経」を唱えることの重要性を説いたもので、書体・紙質ともに学術的価値が高い。
歴代と法縁
圓頓寺は京都妙傳寺を旧本山とし、勇師法縁に属する。勇師法縁は、関西から東海地方にかけて多くの寺院を擁する日蓮宗の一派であり、圓頓寺もその一つとして布教活動を続けてきた。近代以降も、地域の檀信徒とともに法要・祈願・宗教行事を継続し、岡崎市の仏教文化を支える寺院の一つとして位置づけられている。
文化財
以下の文化財が岡崎市指定文化財に登録されている。
| 指定名称 | 種別 | 指定年月日 | 時代 |
|---|---|---|---|
| 紙本墨書法華題目抄 | 書跡 | 昭和35年(1960年)3月10日 | 鎌倉 |
出典:『岡崎市文化財図録第二集』(岡崎市教育委員会、1980年)49頁。
交通アクセス
- 名鉄名古屋本線「東岡崎駅」から徒歩約15分。
- 名鉄バス「中伝馬」停留所から徒歩約3分。
- 所在地:〒444-0052 愛知県岡崎市久右エ門町1-16。
関連項目
脚注
参考文献
- 『新編 岡崎市史 近世3』新編岡崎市史編さん委員会、1992年7月1日、1081–1082頁。
- 『新編 岡崎市史 総集編20』新編岡崎市史編さん委員会、1993年3月15日。
- 『岡崎市文化財図録第二集』岡崎市教育委員会、1980年、49頁。
- 『岡崎市史 第二巻・第三巻』岡崎市役所、1972年10月5日。
外部リンク
- 圓頓寺_(岡崎市)のページへのリンク