井上恵理とは? わかりやすく解説

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井上恵理

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/11/16 04:41 UTC 版)

井上 恵理(いのうえ けいり、1903年(明治36年)11月5日 ー 1967年(昭和42年)5月、栃木県那須郡生まれ)は日本の鍼灸師柳谷素霊・岡部素道・竹山晋一郎・戸部宗七郎らと同じく経絡治療創設メンバーのひとり、古典鍼灸研究会創設2代目会長、元東京都鍼灸師会会長、知熱灸の創案者[1][2]、バネ式鍉鍼考案者のひとり[3]。息子・井上雅文も鍼灸師であり、古典鍼灸研究会会長を務める。[4]

来歴

1903年(明治36年)11月5日、栃木県那須郡に生まれる。

1919年(大正8年)8月補修学校を卒業し、地元・黒磯機関庫勤務、鉄道員になる。

1920年(大正9年)上京し、3月に東京都鉄道局教習所機械専攻科卒。同年4月から副機関士として東京鉄道局白河機関庫に就職。のちに機関士として東京・両国勤務。

1921年(大正10年)11月勤務中に機関車から転落し、胸部を打撲。これがもとで脊椎カリエスを発症。全身結核を併発し、約2年間の入院生活を送る。

1925年(大正14年)自宅療養に移り、生死を彷徨う。

1926年(大正15年)夏修行と托鉢の旅をはじめ、そのなかで鍼灸の師匠を探す。11月千葉県流山の鍼灸師、関口泰道に入門。

1929年(昭和4年)京都方面へ托鉢の旅に出る。

1933年(昭和8年)醍醐寺三宝院にて得度、法名・真道をもらう。

1934年(昭和9年)東京鍼灸学校の講習会に参加、恩師柳谷素霊に出会う。

1935年(昭和10年)見合い結婚。

1937年(昭和12年)3月21日、息子・井上雅文が生まれる。

1939年(昭和14年)4月、本間祥白が弟子入り。

1940年(昭和15年)古典鍼灸研究会を創設。柳谷素霊、岡部素堂、竹山晋一郎らとともに経絡治療を確立。

1945年(昭和20年)東京大空襲前に、栃木県黒磯町に疎開。

1949年(昭和24年)頃、知熱灸を考案。

1956年(昭和31年)東京都鍼灸師会会長に選出。

1967年(昭和42年)クモ膜下出血のため死去。享年63歳。〈以上出典:[4][5][6]

生い立ち

恵理は号、幼名は丑松(丑の日、丑の刻生まれのため)、僧侶での名前は真道、ペンネームは井蛙坊[2]、法名は大慈院鍼道術真道居士。[4](生誕日の11月5日は丑の日ではないが、本来は夏の土用丑の日生まれであったが、当時よくあった出生届の遅れにより11月5日となる)[7]

・幼少期~鉄道員

栃木県那須郡那須村高久松子の百姓の次男として生まれる。農家を継ぐように育てられるも「思うところあって」鉄道機関士を目指す。地元・黒磯の機関庫勤務で鉄道員になるも、機関士を目指して、東京に上京。機関士学校を卒業したのちに、副機関士として福島県の白河で働き始める。優秀な働き手として、皇族から賞状を賜り、そのとき褒賞として初めて洋食のフルコースを食べたという。のちに機関士として東京・両国に勤務。[8]

・病苦期(この1921年から1934年までの記載については、出典ごとに年次と事柄に差異がある)

1921年11月、勤務中に機関車から転落し、胸部を打撲。その日は何の障害もなかったが、2か月後に右胸部第二肋骨がカリエス(骨髄組織が乾酪性壊疽に陥った状態)となり、東京鉄道病院に入院。その3か月後、肺結核になり、故郷の須賀川の病院に転院。胸部の手術2回、頸部の手術5回、腰椎カリエスも併発し、その苦痛軽減のための手術も行ったが、症状は改善せず、医師からも全治の見込みなしと宣告される。自宅療養に踏み切り680日強の入院生活が終わる。[9]

1925年自宅にて生死を彷徨い、そのうえ腰部手術の後遺症で坐骨神経痛を発症した。その年の夏の終わり、農年踊りの太鼓の音が病床まで聞こえ、その響きが苦痛で横たわっていることもできず、羨望と悔しさから、やけくそになり、盆踊りに参加。2周半回ったところで、腰部の手術痕から破膿し、浴衣が血染めになる。不思議にもこのときから坐骨神経痛を全く感じなくなる。[9]

・出家

改善されない結核のため、母のすすめもあり、死に場所を求めて、僧侶として死すことを決意。自宅近くの「瀬縫の不動尊」に住み込む。そこの僧侶にして鍼灸師・和木徹斉の治療を受け、頸部リンパ腺腫瘍と肋骨カリエスの手術部の膿が緩解。生き方として仏教とならび、鍼灸を志すことになる。[10]

この際、和木に入門するも、和木は「鍼は教えるものではない、覚えるものである」という方針で、恵理は通い弟子となる。しかし、1年8か月後に和木が死去。新たな師を求めることになる。[4]

・鍼灸の道を志す

1926年の夏以後、修行と托鉢の旅に出て、房総半島を1周し、11月に千葉県・流山にたどりつく。鉄道教習所の同僚・人見の紹介で、流山在住の鍼灸師・関口泰道に弟子入り。2年間は炊事、洗濯、掃除しかやらされず治療室にも一度も入れてもらえなかったという。3年目から診療を見分。関口は眼科疾患を専門としており、後年恵理が眼科疾患を得意とする素地となる。[10]

1929年、関口のもとを離れると、京都方面へ托鉢の旅に出る。京都伏見・真言宗醍醐派の総本山醍醐寺に入山。修行の傍ら、柳谷素霊の学校が発行していた鍼灸の規則本を東京から取り寄せ、鍼灸の知識を積む。[10][11]

1933年醍醐寺三宝院にて得度、法名・真道をもらい、戸籍の名を丑松から真道に変える。その後、上京し、埼玉県灸術試験に合格。深川不動尊目黒不動尊で働き、縁日では信者に灸術と長鍼の施術を行っていた。[10]

・柳谷素霊との出会い

1934年柳谷素霊が教頭を務める両国・東京鍼灸学校の講習会に参加し、柳谷と出会ったことで古典主義の鍼灸に触れる。また岡部素道、竹山晋一郎と交流が始まったのもこの年。同年東京警察庁で鍼術試験に合格。[10]

1935年小倉極(おぐら きわ)と見合い結婚。新居を恵比寿にかまえたが、翌年には大塚、その暮れには巣鴨へ転居と、住まいを転々とする。[10]

1937年(昭和12年)3月21日、息子・井上雅文が生まれる。[2]

1939年(昭和14年)4月、柳谷素霊の紹介で本間祥白が弟子入り。以後毎日のように治療の見学に訪れる。この頃より、雑誌「東邦医学」に論文を発表。[12]

1940年3月3日「新人弥生会」結成(のちの経絡治療学会)、経絡治療の前身として「古典的治療」が提唱される。同年9月、柳谷素霊を会長と仰ぐ古典鍼灸研究会設立。講義のほとんどは恵理が担当した。「医道の日本」昭和15年1月号から「井蛙坊」のペンネームで漫筆も掲載。[12]

1941年9月古典鍼灸研究会にて、『難経』の講義を始める。[6][13]

・戦後

1945年(昭和20年)東京大空襲前に、巣鴨から栃木県黒磯町に疎開。東京へ往診に向かうこともしばしば。終戦後も、一週間東京の患者の家に寝泊まりし、帰ってくる生活を送る。占領軍により、鍼灸禁止令が発令されかけると、反対運動に参加した。財団法人・東方治療研究所の理事として研究に参加する。昭和20年代から福島弘道主宰の東洋はり医学会にて講師として招かれ、『難経』『鍼灸大成論』「標治法」「小児鍼」などの講義を行う。[2][12]

(『難経』『鍼灸大成論』はのちに東洋はり医学会から録音テープの起こしが出版される。)

1948年(昭和23年)自宅を東京都台東区・入谷に移す。[2]

1949年(昭和24年)日本鍼灸治療学会にて、「鍼灸術のドーゼの研究」を発表。灸熱を感じる温度が人により異なることを見つけ、灸の熱さを患者が訴えた際に、もぐさを取り除く「知熱灸」を創案。また拓殖大学付属紅陵高校鍼灸科の教諭となる。[2]

1951年(昭和26年)、社団法人日本鍼灸師会の創立時、理事となる。[2]

1956年(昭和31年)、東京都鍼灸師会会長に選任され、1年の任につく。[2]

1959年(昭和34年)医道の日本主催(途中より経絡治療研究会主催に代わる)、経絡治療夏期大学の講師を1966年(昭和41)年まで務める。[12]

1960年(昭和35年)頃、鍼の柄が長い中国鍼をもとにして、井上式長柄鍼が生まれる。[12]井上式長柄鍼としてなお鍼灸道具メーカー「前田豊吉商店」より販売されている。

1962年(昭和37年)東京教育大学特設教員養成部の非常勤講師となり、経絡治療の理論と実技指導にあたる。[2]

1967年(昭和42年)5月29日、何回目かのクモ膜下出血で永眠。享年63歳。[14]

治療について

治療は経絡治療を行っていた。[15]

刺鍼は撚鍼法で、鍼管を使わずひねりながら鍼を刺入するスタイル。痛みなく鍼を刺入することがモットー。長鍼を用いる際は送り込み法も使っていた。散鍼も用いた。散鍼は鍼を持つ右手が指先まで鞭のようにしなり、あたかも鍼を打ち付けるかのように動き、反対の左手では皮膚や筋肉を触りながらツボを探る。[15]

術は、半米粒大の透熱灸、自身が考案した知熱灸、患部をいぶすいぶし灸が用いられた。透熱灸はツボによる効果が期待できるところに用い、知熱灸は押して痛むところ、硬いところに用い、いぶし灸は円形脱毛症などに用いたという。[15]

診察は脈診。六部定位脈診を用いた。患者の左右の手首を術者の示指・中指・薬指の3本で持ち、それぞれの指に五臓六腑をあてはめ、経絡の診断をする脈診法。経絡治療で用いる脈診である。[15]

千葉県流山の鍼灸師・関口泰道の弟子だった頃は長鍼の深鍼であったが、柳谷素霊に出会い、鍼が浅くなった。[4]

恵理の施術を見学していた者から「先生、今の(手技)は補ですか? 瀉ですか?」と問われた際に「補も瀉もないよ」と答えている。[14]

小川晴通曰く、井上恵理の鍼は瀉的だった。小川と井上両人の施術を受けた岡部がそのように述べていたという。患者の多くが下町の肉体労働者だったために実証の患者が多く、瀉的になったのではないかと小川は推測している。[16]

人物

井上恵理には生涯一冊の著書も存在しない。井上恵理が自分の仕事として執筆を行うことは向かないと判断したゆえである。鍼灸について執筆したのは、小学館刊『日本百科大辞典』の鍼灸の項目と、小学館刊『家庭の医学』の鍼灸術に書いたのみとされる。論文は雑誌「東邦医学」「日本鍼灸治療学会総会論文集」などの発表していた。[12]

鍼灸の患者は人につくため「鍼灸師に2代なし」と子供たちに伝えていたが、子供たちは後を継いで鍼灸師になっている。[4]

本間祥白との関係

師弟関係にあった本間祥白は、柳谷素霊の紹介で恵理のもとを訪れている。年齢が1つ年上で、文学学士を有していることから、井上ははじめ弟子入りを断った。しかし、再度弟子入りを請われた際に、ともに鍼灸の研究を進めることを約束し、治療の見学を許した。井上は本間を第一徒弟と称している。[6]

本間は井上恵理に弟子入りした際、はじめに「どういう方針の治療なのですか」と尋ねた。井上から「『難経』に基づいて治療を行っています」と答えられると、「それは(仏典の)お経の本ですか?」と答え、「いやこれは鍼灸治療の基本書だよ」と笑われた話がある。[6][17]

その後「古典鍼灸研究会」にて、1941年(昭和16年)より井上恵理が講師に就任したに際、上記エピソードが頭にある本間は井上に『難経』の講義を懇願したが、当時の井上はまだ『難経』を講義できるほど熟読していなかった。しかし、井上が承諾をする前から本間は会員に『難経』を買わせており、井上は講義をやらざるを得なかったと述べている。[13]

井上は本間の著書にも深く関わっている。

『鍼灸補寫要穴之図』(医道の日本)は本間が井上恵理の本治法で選ぶ要穴をまとめた物である。[12]

『鍼灸経絡経穴図鑑』は本間祥白自身がモデルとなり、井上恵理の患者であり、恵理の仲人であった画家・畠野圭右が描いた経絡図が載っている。[12]

『誰にもわかる経絡治療講話』に登場する谷井先生は柳谷素霊、井上恵理の姓から取っている。[12]

竹山晋一郎は編集者の心情から、本間の遺著『難経の研究』を校閲した井上恵理の労をねぎらった。本間の原稿の書き方はマス目に収まることなく、図を一緒に書き連ねていたため、最後までどこに入れていいかわからない図が2つほどあり困ったと、井上は竹山に語っていた。[18]

弟子

弟子には、本間祥白の他に、医師の石野信安[19]、東洋はり医学会を設立した福島弘道[20]、息子・井上雅文[21]、南谷汪伯[22]などがいる。

関連書籍

・『南北経験医方大成による病証論 井上恵理 講義録ー付・臨床質問』東洋はり医学会 広報部、2008-10-07

東洋はり医学会創立50周年記念で作られた一冊。井上恵理が視覚障碍者の鍼師が中心となって創設された東京古典はり医学会(現・東洋はり医学会)にて、1964年(昭和39年)4月から1966年(昭和41年)4月まで医古典『南北経験医方大成』を講義した。その際の講義テープを文字起こしを行った問答形式の本。原典全文を解説する前に当時の講義が終わりを迎えたため、この本でも全文は掲載されていない。会員から井上恵理へ対しての臨床質問が収録されている。

・『井上恵理の「難経」講義』』東洋はり医学会 広報部、2019-8-25

東洋はり医学会創立60周年記念で作られた一冊。上記同様、井上恵理が東京古典はり医学会(現・東洋はり医学会)にて、医古典『難経』を講義した。その際の講義テープを文字起こしを行った問答形式の本。点訳した『難経』を週2回輪読したという。全文を解説。

論文

「灸の度量に就いて」『日本鍼灸治療学会総会論文集』1952 年 1 巻 1 号 p. 123-126

「ドーゼ (度量) の研究 (第2報)ー鍉鍼についてー」『日本鍼灸治療学会総会論文集』1954 年 3 巻 1 号 p. 165-168

「ドーゼの研究 (第3報)ー皮内鍼についてー」『日本鍼灸治療学会総会論文集』1955 年 4 巻 1 号 p. 182-184

脚注

  1. ^ 知熱灸”. 東京衛生専門学校東洋医療総合学科Blog. 学校法人衛生学園 (2013年11月28日). 2025年11月12日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i 『近代鍼灸界を支える人々ー鍼灸の道を拓くー』有限会社村松、1993年11月15日、29頁。 
  3. ^ 【東洋ブログ 大希のつぶやき】MK式美容鍼 鍉鍼(ていしん)”. 東京衛生専門学校東洋医療総合学科Blog. 学校法人衛生学園 (2025年8月26日). 2025年11月12日閲覧。
  4. ^ a b c d e f 岡田明三 編『医道の日本アーカイブス1-名人たちの経絡治療座談会』株式会社医道の日本、2015年8月10日、186-187頁。 
  5. ^ 井上雅文『近代鍼灸界を支える人々ー鍼灸の道を拓くー』有限会社村松、1993年11月15日、20ー33頁。 
  6. ^ a b c d 本間祥白『難経の研究』株式会社医道の日本、1968年7月1日、序頁。 
  7. ^ 『近代鍼灸界を支える人々ー鍼灸の道を拓くー』有限会社村松、1993年11月15日、21頁。 
  8. ^ 『近代鍼灸界を支える人々ー鍼灸の道を拓くー』有限会社村松、1993年11月15日、21-22頁。 
  9. ^ a b 『近代鍼灸界を支える人々ー鍼灸の道を拓くー』有限会社村松、1993年11月15日、22-23頁。 
  10. ^ a b c d e f 『近代鍼灸界を支える人々ー鍼灸の道を拓くー』有限会社村松、1993年11月15日、25-26頁。 
  11. ^ 岡田明三 編『医道の日本アーカイブス1-名人たちの経絡治療座談会』株式会社医道の日本、2015年8月10日、31頁。 
  12. ^ a b c d e f g h i 『近代鍼灸界を支える人々ー鍼灸の道を拓くー』有限会社村松、1993年11月15日、27-28頁。 
  13. ^ a b 岡田明三 編『医道の日本アーカイブス1-名人たちの経絡治療座談会』株式会社医道の日本、2015年8月10日、43-44頁。 
  14. ^ a b 『近代鍼灸界を支える人々ー鍼灸の道を拓くー』有限会社村松、1993年11月15日、33頁。 
  15. ^ a b c d 『近代鍼灸界を支える人々ー鍼灸の道を拓くー』有限会社村松、1993年11月15日、30-31頁。 
  16. ^ 『近代鍼灸界を支える人々ー鍼灸の道を拓くー』有限会社村松、1993年11月15日、65頁。 
  17. ^ 岡田明三 編『医道の日本アーカイブス1-名人たちの経絡治療座談会』株式会社医道の日本、2015年8月10日、46-47頁。 
  18. ^ 本間祥白『難経の研究』株式会社医道の日本、1968年7月1日、354-356頁。 
  19. ^ 岡田明三 編『医道の日本アーカイブス1-名人たちの経絡治療座談会』』株式会社医道の日本、2015年8月10日、100-101頁。 
  20. ^ 『わかりやすい経絡治療』東洋はり医センター、1979年1月20日。 
  21. ^ 古典鍼灸研究会(付脈学会) 編『井上雅文講義録ー脈から見える世界ー古典鍼灸の深さを知る』株式会社医道の日本、2011年8月11日、199頁。 
  22. ^ 山口智史, ed (2017-9-1). “ツボは陥凹だととらえれば臨床の風景が変わるー南谷汪伯氏”. 医道の日本 第76巻 (第9号(通巻888号)): 38-42. 



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