ルイス・デ・ラ・クルス・イ・リオスとは? わかりやすく解説

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ルイス・デ・ラ・クルス・イ・リオス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/18 09:16 UTC 版)

ルイス・デ・ラ・クルス・イ・リオス
Luis de la Cruz y Ríos
自画像(1830年ころ)
生誕 (1776-06-21) 1776年6月21日
スペイン、プエルト・デ・ラ・クルス(Puerto de la Cruz)
死没 1853年7月20日(1853-07-20)(77歳没)
スペイン、アンテケーラ
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ルイス・デ・ラ・クルス・イ・リオス(Luis de la Cruz y Ríos、1776年6月21日 - 1853年7月20日)は、スペイン、カナリア諸島生まれの画家である。おもに肖像画を描いた。

略歴

スペインカナリア諸島テネリフェ島の町、プエルト・デ・ラ・クルス(Puerto de la Cruz)で、画家、木彫り彫刻家のマヌエル・デ・ラ・クルス(Manuel de la Cruz)の息子に生まれた。父親から美術を学んだ後、サンタ・クルス・デ・テネリフェの画家、フアン・ベントゥーラ・デ・ミランダ(Juan Ventura de Miranda: 1723-1805)の弟子になった。1795年から1810年の間はプエルト・デ・ラ・クルスに自分の工房を開き活動した。22歳でグラン・カナリア島ラス・パルマスの教会の宗教画を描いた。1800年には町の民兵隊の将校に任命され、1808年まで様々な民兵としての職務を果たした。1808年にプエルト・デ・ラ・クルスの市長を務めテネリフェ島で教えていたが、1816年ころスペイン王フェルナンド7世の宮廷画家として招かれ、マドリードに移った。

スペイン立憲革命の中、1823年にデ・ラ・クルス・イ・リオスはマドリードから政治的な理由でパリに亡命し、スペインに侵攻したフランス軍とスペインに戻った。1825年にフランス王シャルル10世から騎士(Ordre de Saint-Michel)に叙せられた[1]。フェルナンド7世に多くの公職に任命され、1833年にイザベル・ラ・カトリカ勲章(Orden de Isabel la Católica)を受勲した[2]。フェルナンド7世を継いだスペイン女王イサベル2世からも俸給を与えられた。

1853年に故郷に戻る途中にアンダルシアのアンテケーラで亡くなった。

作品

脚注

  1. ^ Almanach royal (en francés). Testu & cie. 1826. Consultado el 1 de marzo de 2019.
  2. ^ Revista de historia canaria. 1 de enero de 1956. Consultado el 20 de febrero de 2017

参考文献

  • Antonio Rumeu de Armas: Luis de la Cruz y Ríos, Viceconsejería de Cultura y Deportes, Islas Canarias, 1997, ISBN 84-7947-219-7




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