マッテーオ2世・ヴィスコンティ
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/12 05:26 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動マッテーオ2世・ヴィスコンティ Matteo II Visconti |
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ミラノ僭主 | |
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在位 | 1349/54年 - 1355年 |
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出生 | 1319年頃 |
死去 | 1355年9月29日 |
配偶者 | エジディオーラ・ディ・フィリッピーノ・ゴンザーガ |
家名 | ヴィスコンティ家 |
父親 | ステーファノ・ヴィスコンティ |
母親 | ヴァレンティーナ・ドーリア |
マッテーオ2世・ヴィスコンティ(Matteo II Visconti, 1319年頃 - 1355年9月29日)は、ミラノの副領主(シニョーレ)である。兄弟のガレアッツォ2世・ヴィスコンティとベルナボ・ヴィスコンティと共治していた。
生涯
ステーファノ・ヴィスコンティとヴァレンティーナ・ドーリア(ブランカ・ドーリアの息子のベルナボ・ドーリアの娘)との第一子である。
1342年に、エジディオーラ・ディ・フィリッピーノ・ゴンザーガ(Egidiola di Filippino Gonzaga)と結婚。
1346年に叔父のルキーノ・ヴィスコンティによってモンフェッラートへ追放され、ミラノに戻ったのは1354年に大司教ジョヴァンニ・ヴィスコンティの死去に伴うミラノ公国の分割に参加した時で、彼に割り当てられたのは、ローディ、ピアチェンツァ、パルマ、ボローニャであった。
母ヴァレンティーナが作った夕食を大量に食べた後に死んだが、実際には兄弟に毒を盛られたと疑われている。
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マッテーオ・ヴィスコンティ2世(1319年?-1355年)
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「ヴィスコンティ家」の記事における「マッテーオ・ヴィスコンティ2世(1319年?-1355年)」の解説
ガレアッツォ1世とジョヴァンニ1世の弟ステーファノの息子。ミラノ僭主(在位:1354年 - 1355年)。
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