マクリーノ・ダルバ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/24 08:35 UTC 版)
マクリーノ・ダルバ
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Macrino d'Alba | |
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自画像、Museo civico d'arte antica蔵
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生誕 | 1460年から1465年ころの間 イタリア、アルバ |
死没 | 1520年ころ |

マクリーノ・ダルバ(Macrino d'Alba)の仇名で知られているジャン・ジャコモ・デ・アッラーディオ(Gian Giacomo de Alladio、1460年から1465年ころの間の生まれ、1520年ころに没)は、イタリアの画家である。1495年から1513年の間、イタリア北西部のピエモンテやパヴィーアで活躍したことが知られている。
略歴
マクリーノ・ダルバに関する情報は限られていて15世紀から16世紀にピエモンテ地域で描かれたと考えられる作品はマクリーノ・ダルバの作品とされることが多かったが、近年研究が進んできている。ピエモンテのアルバの名家の出身で[1]、仇名のマクリーノ・ダルバは、出身地がアルバであることと、痩せた外見からきているとされるがトリノの美術館(Museo civico d'arte antica)にある自画像とされる作品はそれほど痩せて描かれていない。
地元で誰から絵を学んだかは知られていないが、1490年頃になって有力者の支援を受けてローマに修行にでたとされていて教皇庁で働いていたルカ・シニョレッリ(c.1450-1523)やペルジーノ(c.1448-1523)といった有名な画家から影響を受けた。特にマクリーノ・ダルバの絵のスタイルがピントゥリッキオ(1454-1513)に似ていることからピントゥリッキオの工房で働いた可能性が高い。
ローマから故郷に戻ると、ピエモンテにローマで学んだ革新的な絵画のスタイルをもたらし、1495年に描いた聖母子と4人の聖人を描いた三連祭壇画や1896年のチェルトーザ・ディ・パヴィーアの多翼祭壇画[2]、アスティ近くの修道院(Certosa di Valmanera)の多翼祭壇画にはピントゥリッキオの影響が強くみられる
モンフェッラート侯国でのマクリーノ・ダルバの画家としての評価は揺るぎのないものであったが、アスティではガンドルフィーノ・ダスティ(Gandolfino d'Asti: fl.1493-1518)という地元の画家と競うことになった。東ローマ帝国の貴族、パレオロゴス家の分家でモンフェッラート侯国を支配したパレオロゴス家の宮廷から多くの注文を得て肖像画も描いた。
作品
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"pala Certosa"
パヴィア修道院の宗教画 -
聖アンナと聖ヨアヒム
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キリストと授乳させるマリア
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モンフェッラート侯グリエルモ9世の妃アンヌ・ダランソンの肖像
脚注
- ^ Le informazioni utilizzate derivano dal saggio di E. Villata citato in bibliografia e reperibile al sito della Fondazione Ferrero in Alba Archived 2005-03-08 at the Wayback Machine.
- ^ "Polittico di Macrino d'Alba". 2022年10月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年4月11日閲覧。
参考文献
- Edoardo Villata, Macrino d'Alba, Artistica EDitrice, 2000
- Giovanni Romano (a cura di), Macrino d'Alba; protagonista del Rinascimento piemontese (catalogo della mostra tenuta presso la Fondazione Ferrero), ed. Artistica Piemontese, 2001
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