ハインリヒ4世_(メクレンブルク公)とは? わかりやすく解説

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ハインリヒ4世 (メクレンブルク公)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/17 03:30 UTC 版)

ハインリヒ4世
Heinrich IV.
メクレンブルク公
在位 1422年 - 1477年

出生 1417年
死去 1477年3月9日
埋葬 神聖ローマ帝国
メクレンブルク公領、ドベラーン修道院
配偶者 ドロテア・フォン・ブランデンブルク
子女 アルブレヒト6世
ヨハン6世
マグヌス2世
バルタザール
家名 メクレンブルク家
父親 メクレンブルク公ヨハン4世
母親 カタリーナ・フォン・ザクセン=ラウエンブルク
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ハインリヒ4世(Heinrich IV., 1417年 - 1477年3月9日)は、メクレンブルク公(在位:1422年 - 1477年)。

生涯

ハインリヒ4世はメクレンブルク公ヨハン4世とカタリーナ・フォン・ザクセン=ラウエンブルクの息子で、その肥満した身体と贅沢な生活から「肥満公」と呼ばれた。

1422年の父の死後にメクレンブルク公領を相続したが、母カタリーナが1436年まで摂政を務めた[1]。その後、1442年に弟ヨハン5世が死去するまで共同で統治した。ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ1世の娘ドロテア・フォン・ブランデンブルクと結婚した[2]

1436年にヴィルヘルム・フォン・ヴェルレが死去すると、ヴェルレ系メクレンブルク家の男系は断絶し、ヴェルレはメクレンブルク公領のものとなった。また、1471年にメクレンブルク=シュタルガルト公ウルリヒ2世が死去すると、メクレンブルクは再びハインリヒ4世のもとに統一された[1]

ポメラニア公ブランデンブルク選帝侯の間に勃発したシュテティーン継承戦争は、ハインリヒ4世の調停により1472年5月下旬に終結した。

ハインリヒ4世は晩年に、徐々にその権力を息子のアルブレヒト6世、ヨハン6世およびマグヌス2世に移譲した。ハインリヒ4世の死後、ヨハン6世が1474年に、アルブレヒト6世が1483年に亡くなるまで、3人は共同統治を行った。アルブレヒト6世の死後、マグヌス2世は単独で統治を行った。末息子バルタザールは公領の支配にはほとんど関心を持たなかった。

ハインリヒ4世は1477年に亡くなり、ドベラーン修道院に埋葬された[2]

子女

  • アルブレヒト6世(1438年 - 1483年) - メクレンブルク公
  • ヨハン6世(1439年 - 1474年) - メクレンブルク公
  • マグヌス2世(1441年 - 1503年) - メクレンブルク公
  • バルタザール(1451年 - 1507年) - メクレンブルク公、1479年までシュヴェリーン教区の司教補佐を務めた。

脚注

  1. ^ a b Wigger 1885, p. 191.
  2. ^ a b Wigger 1885, p. 192.

参考文献

先代
アルブレヒト5世
メクレンブルク公
1422年 - 1477年
(1442年までヨハン5世と共治)
次代
アルブレヒト6世
マグヌス2世



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