ジャンヌ・ジュリー・エレオノール・ド・レスピナスとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > ジャンヌ・ジュリー・エレオノール・ド・レスピナスの意味・解説 

ジャンヌ・ジュリー・エレオノール・ド・レスピナス

(ジャンヌ・ジュリー・エレオノーレ・ド・レスピナス から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/20 01:00 UTC 版)

ジャンヌ・ジュリー・エレオノール・ド・レスピナス
ジャンヌ・ジュリー・エレオノール・ド・レスピナス
生誕 1732年11月9日
フランス王国リヨン
死没 1776年5月23日
著名な実績 サロンの開設
テンプレートを表示

ジャンヌ・ジュリー・エレオノール・ド・レスピナス(Jeanne Julie Éléonore de Lespinasse、1732年11月9日-1776年5月23日)は、フランスサロン主催者。レスピナス嬢とも。

少女時代

ジャンヌ・ジュリー・エレオノール・ド・レスピナス(以下レスピナス嬢)は1732年11月9日にフランスのリヨンで生まれ、クロード・レスピナスの娘として育つ。16歳の時、修道院附属女子学校に在籍中、義理の姉妹であるマダム・ド・ヴィッチィの家庭教師となる。ヴィッチィは、マダム・ドゥ・デファンドの兄弟と結婚していた。こうしてマダム・ドゥ・デファンドとレスピナス嬢は友人となった。マダム・ドゥ・デファンドは彼女の才能に気付き、付き人としてパリに来るよう説得した。

マダム・ドゥ・デファンドのサロンにて

レスピナス嬢は1754年にマダム・ドゥ・デファンドの住居に移り住み、彼女の主催するサロンで有名な外交官や貴婦人、哲学者や政治家たちと交流を深めた。この関係は1764年迄の10年間、マダム・ドゥ・デファンドが彼女の影響の増長に嫉妬し、ひどい口論をするまで続いた。

サロン開設

やがてレスピナス嬢は自身のサロンを開設する。そのサロンにはマダム・ドゥ・デファンドのサロンの中でも著名な者たちが参加した。ダランベールもその1人である。彼は積極的に彼女と交流し、彼女の家に住みさえした。彼女には階級も美しさも備わっていなかったが、彼女はその才能をして彼女のサロンをパリで最も有名にした。

恋愛書簡

ジュリは、ジャック=アントワーヌ=イポリット・ド・ギベール伯爵にあてて、1773年から死ぬまでの三年、180通近い手紙を書いたが、それが1811年に書簡集として公刊され、レスピナスの名を高からしめた。

関連書籍

  • 保苅瑞穂『恋文 パリの名花レスピナス嬢悲話』筑摩書房, 2014.7
  • ジュリー・ド・レスピナス『恋ぶみ』後藤達雄訳. 白水社, 1950



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ジャンヌ・ジュリー・エレオノール・ド・レスピナス」の関連用語

ジャンヌ・ジュリー・エレオノール・ド・レスピナスのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ジャンヌ・ジュリー・エレオノール・ド・レスピナスのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのジャンヌ・ジュリー・エレオノール・ド・レスピナス (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS