ギヨーム・エルラン
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ギヨーム・エルラン
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Guillaume Herreyns | |
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Jan Vervloetによる肖像画 (c.1815)
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生誕 | 1743年6月10日 アントウェルペン |
死没 | 1827年8月10日 (84歳没) アントウェルペン |
ギヨーム=ジャック・エルラン(Guillaume-Jacques Herreyns、オランダ語名:Willem Jacob Herreyns、1743年6月10日 - 1827年8月10日)は、アントウェルペンがフランス、ネーデルラント連合王国の支配を受けていた時代の画家である。アントウェルペンの美術学校(Académie des beaux-arts d'Anvers)で多くの画家を育てた。
略歴
アントウェルペンで生まれた。画家、版画家の一族の出身で曽祖父のジェイコブ・エルラン(Jacob Herreyns(1643–1732)が画家・版画家として知られている。 アントウェルペンの美術アカデミー(ベルギー独立後にアントウェルペン王立美術アカデミーとなる。)で学び、いくつかの賞を得て、アンドレ・コーネル・ラン(André Corneille Lens: 1739-1822)の後任としてアカデミーで絵を教えた[1] 。
その後、メヘレンで活動し、1771年にメヘレンの絵画学校が設立されるのに貢献した。宗教画の制作の技量により、1780年にスウェーデン王グスタフ3世の宮廷画家の称号を受けた。オーストリア・ハプスブルク家支配のブラバント公国の公式画家の称号も受けた。
フランス革命軍の占領によりブラバント公国が消滅し、この地域がフランスのドゥー=ネト県になるとエルランはアントウェルペンに戻り、1795年にドゥー=ネト県の学校(École centrale du département des Deux-Nèthes)の絵画の教授に任命され、革命政権によって分散した市内の教会や施設の宗教芸術作品の一部を集めた。1800年にアントウェルペン絵画・彫刻・建築特別学校(École spéciale de peinture, sculpture et architecture d'Anvers)の校長に任じられた。1804年にアントウェルペンの美術アカデミーが再編されると校長になり、亡くなるまで校長を続けた。ネーデルラント連合王国が成立すると、オランダ王立芸術科学研究所の会員に選ばれた。1827年にアントウェルペンで亡くなった。
ギヨーム・エルランに学んだ画家
エルランに学んだ画家には次のような人物がいる。
- ヘンドリック・デ・コルト(Hendrik de Cort: 1742-1810)
- ヘーラルト・ファン・スパーンドンク(1746-1822)
- ピエール・ジョセフ・セレスタン・フランソワ(1759-1851)
- ピエール・ヴァン・フッフェル(Pierre Van Huffel: 1769-1844)
- ジャン=バティスト・ベレ(Jean-Baptiste Berré: 1777-1839)
- フランソワ=アントワーヌ・ボシュエ(1798-1889)
- フスタフ・ワッペルス(1803-1874)
- アントワーヌ・ヴィールツ(1806-1865)
作品
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十字架上のキリスト
メヘレンの神学校 -
エマオの晩餐
聖母大聖堂 (アントウェルペン) -
画家アンドレ・ランス(André Lens)の肖像画
アントワープ王立美術館. -
エルランが装飾画を描いたメヘレンの教会内部.
脚注
- ^ Histoire de la peinture flamande depuis ses débuts jusqu'en 1864, 1876, vol. 10, p.504.
参考文献
- Guillaume-Jacques Herreyns, Catalogue du Musée d'Anvers, 2e édition, 1857, p. 369-377.
- Histoire des peintres de toutes les écoles, 1864, volume 5 p. 32.
- Notice des tableaux exposés au Musée d'Anvers, 1829, p. 47.
- Catalogue du Musée de la ville de Malines, 1869, p. 24-25.
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