カール・フォン・ハラハとは? わかりやすく解説

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カール・フォン・ハラハ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/11 06:02 UTC 版)

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カール・フォン・ハラハ
Karl von Harrach

出生 1570年
オーストリア大公国、ローラウ
死去 1628年5月25日
ボヘミア王国プラハ
配偶者 マリア・エリーザベト・フォン・シュラッテンバッハ
子女 エルンスト・アーダルベルト
オットー・フリードリヒ
カタリーナ
エリーザベト
マクシミリアーナ 他
家名 ハラハ家
父親 レオンハルト4世・フォン・ハラハ
母親 マリア・ヤコベア・フォン・ホーエンツォレルン
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カール・フォン・ハラハ(Karl Freiherr von Harrach, Reichsgraf zu Rohrau, 1570年 - 1628年5月25日)は、オーストリアの貴族、廷臣。神聖ローマ皇帝フェルディナント2世の宮廷顧問官。

生涯

レオンハルト(4世)・フォン・ハラハ男爵(Leonhard IV von Harrach, 1542年 - 1597年)とその最初の妻でホーエンツォレルン伯カール1世ドイツ語版の娘であるマリア・ヤコベア(1549年 - 1578年)の間の次男として生まれた。ヨーロッパ各地を転々としつつ学業を終えると、1594年よりニーダーエスターライヒ地方の政庁に勤め、主馬頭(Oberstallmeister)となった。ネーデルラントで1年をすごしたのちオーストリアに帰り、王領ハンガリーでのトルコ人との戦争に参加した。その後も、オーバーエスターライヒの塩鉱労働者の反乱、皇帝ルドルフ2世に対する弟マティアス大公(のちの皇帝)の反乱、ヴェネツィア共和国との戦争などの諸問題に対処した。

1618年のフェルディナント2世の皇帝選出を支援し、1620年の白山の戦いの後、皇帝が没収したボヘミア貴族の所領の分け前にあずかった。1627年にローラウおよびピュルヒェンシュタイン伯(Graf zu Rohrau und Pürchenstein)に陞爵し、ハンス・ウルリヒ・フォン・エッゲンベルクとともに1620年代の皇帝の顧問団の中で最も影響力のある人物とされた。

アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタインを皇帝に執り成して出世させ、1622年に四女エリーザベトをヴァレンシュタインに嫁がせた。三女カタリーナはヴァレンシュタインの又従弟マクシミリアン・フォン・ヴァルトシュタイン伯爵に、五女マクシミリアーナはヴァレンシュタインの同盟者アダム・エルトマン・トルチカ・フォン・リーパ元帥にそれぞれ嫁ぎ、ヴァレンシュタインとの結びつきを強めている。ハラハ家はヴァレンシュタインが1634年に暗殺されると、相続協定に則ってヴァレンシュタインの資産を相続した。

三男のエルンスト・アーダルベルト・フォン・ハラハプラハ大司教およびトリエント司教を務めた。

参考文献

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