エカテリニ・ボツァリとは? わかりやすく解説

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エカテリニ・ボツァリ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/23 21:30 UTC 版)

ローザ・ボツァリ、J・K・シュティーラー画、1841年
ローザ・ボツァリ、P・ルキーニイタリア語版画、1845年

エカテリニ・"ローザ"・ボツァリΑικατερίνη "Ρόζα" Μπότσαρη, 1818/1820年 - 1875年1月)は、19世紀ギリシャの宮廷女官。ギリシャ独立戦争に殉じた英雄マルコス・ボツァリス英語版の娘で 、近代ギリシャ最初の王妃アマリア・トゥ・オルデンブルクの女官となり、その美貌は欧州諸国の宮廷人たちの注目を集めた。結婚に伴いカラジャ公爵夫人の称号を得た。

生涯

イピロス地方に居住する正教徒アルバニア人部族スリオテス英語版の部族長の1人だったマルコス・ボツァリスの娘として、ヨアニナで生まれ育つ[1]。ギリシャ独立戦争が始まったときもヨアニナにおり、オスマン帝国軍に捕われて他の女性たちとともにバルカン半島内の遠隔地に移送される[2]。捕囚中とはいえ、トルコ人の上級階級女性たちの庇護下にあった。彼女を庇護していた女性たちのうちの1人は、ボツァリを気に入って養女にしようとしたという。結局、ボツァリは捕虜交換によって家族の元に帰り、新生ギリシャ王国の誕生に居合わせることができた[3]

南ドイツのバイエルン王国から迎えられた初代ギリシャ王オソン1世が、1836年北ドイツの小国から王妃アマリアを迎えると、王妃の家政機関が設置され、このときボツァリは王妃の女官の1人に任命された。国王夫妻の宮廷は1843年以前は主にドイツ人で構成されていたため[4] 、ボツァリはほんの数人しかいないギリシャ人廷臣の1人だった。アマリア王妃に仕えるドイツ人牧師の妻であったクリスティアーネ・リュート英語版は、ボツァリについて次のように日記に記している:

2人の女官のうち、ヴィーゼンタウ嬢はカトリック信者で、礼儀作法がなっておらず、容姿も凡庸で、口を閉じているときがないほどおしゃべりなのが特徴である。ギリシャ人のローザ・ボツァリは飛びぬけた美人だが、不愛想で、けち臭く、ドイツのものなら何でも毛嫌いしている。下級の生まれだが、独立の英雄だった父親マルコス・ボツァリスの七光りの後光が射しているために、今を時めいている。王妃の旅行に随行するたび、彼女はその美貌をあちこちで褒めそやされるのだが、民族衣装を着るとその美が最も引き立つ。彼女はドイツ語を理解できることを隠しており、自分自身の恩人である国王王后両陛下の評判を傷つけるような危険な政治的発言を、聞き取っては世間に広めている張本人である[4]

ボツァリはアマリア王妃の欧州諸国の宮廷への公式訪問にしばしば随行した[1][5]。オソン国王の実家であるバイエルン訪問時も、ボツァリは美貌と有名な独立の闘士の娘であることから、公衆の関心を集めた[6]。王妃の舅であるバイエルン王ルートヴィヒ1世は宮廷画家ヨーゼフ・カール・シュティーラーに命じてボツァリの肖像画を描かせ、完成した絵は王のニンフェンブルク宮殿内のコレクション美人画ギャラリー英語版に収められた。ルートヴィヒ王はまた、1844年ボツァリにルートヴィヒ勲章ドイツ語版を授与した。

1844年に宮仕えを辞め、後任にはフォティニ・マヴロミハリ英語版が選ばれた。翌1845年、イオルギオス・カラジャ公爵と結婚し、間に4人の子を儲け、うち2人が成育した[1]

引用・脚注

  1. ^ a b c "Αικατερίνη - Ρόζα Μπότσαρη, στη σκιά του ονόματος", μυθιστορηματική βιογραφία από την Κατερίνα Αγραφιώτη, εκδόσεις Πάπυρος”. Kathimerini (2007年11月8日). 2025年4月14日閲覧。
  2. ^ Arsenis, Ioannis (1881). Ποικίλη Στοά: Εθνική εικονογραφημένη επετηρίς. Athens: Εστία. p. 247. https://archive.org/stream/poikilstoaethni02raphgoog#page/n299/mode/2up 
  3. ^ Poikile Stoa [Ποικίλη Στοά] - Εθνική εικονογραφημένη επετηρίς (1881). pp. 247–248.
  4. ^ a b Lüth C. Fra Fredensborg til Athen: Fragment af en Kvindes Liv. Copenhagen; Gyldendalske;1926.
  5. ^ Poikile Stoa [Ποικίλη Στοά] - Εθνική εικονογραφημένη επετηρίς (1881). p. 248.
  6. ^ Kerofylas, Giannis (2 May 2011). Η Αθήνα στου Όθωνα τα χρόνια. Kastaniotis. ISBN 9789600353129. https://books.google.com/books?id=mQeEBQAAQBAJ&q=%CF%81%CF%8C%CE%B6%CE%B1+%CE%BC%CF%80%CF%8C%CF%84%CF%83%CE%B1%CF%81%CE%B7&pg=PT101 

参考文献

  • Ioannis Arsenis [Ιωάννης Αρσένης], ed. Ποικίλη Στοά: Εθνική εικονογραφημένη επετηρίς. Εστία, Αθήνα.
  • Theodoros Velianitis [Θεόδωρος Βελιανίτης], Κ. Μάισνερ και Ν. Καργαδούρης. επιμ. Η Ελλάς κατά τους Ολυμπιακούς Αγώνας του 1896. Εστία, Αθήνα.

外部リンク

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