アンドレイ・ユーリエヴィチ_(ガーリチ公)とは? わかりやすく解説

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アンドレイ・ユーリエヴィチ (ガーリチ公)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/12 01:08 UTC 版)

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アンドレイ・ユーリエヴィチ
Андрей Юрьевич
ハールィチ・ヴォルィーニ大公
在位 1308年 - 1323年

死去 1323年頃
子女 アンナ
王家 リューリク家
父親 ユーリイ・リヴォーヴィチ
母親 エウフェミア・クヤヴスカ
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アンドレイ・ユーリエヴィチロシア語: Андрей Юрьевич、? - 1323年頃)は、ガーリチ・ヴォルィーニ公国の統治者ユーリーの子である。母はクヤヴィ公カジミェシュ1世の娘エウフェミア(ru)[注 1]。父ユーリーが死亡した後、兄弟のレフとその所領を共同統治した。また、レフはガーリチをその本拠とし、アンドレイはヴォルィーニを本拠地とした。

生涯

アンドレイはポーランド王ヴワディスワフ1世ドイツ騎士団との間に密接な同盟関係を築き、ジョチ・ウルスの干渉を減らそうと務めた。アンドレイ、レフ兄弟の統治期間は、長期にわたる、ジョチ・ウルス、リトアニア大公国との戦いの時期にあたっていた。最終的にはレフとともに戦死するが、それはジョチ・ウルスとの戦闘であるとする説、あるいはポドリャシエ(ru)[注 2]をめぐるリトアニアとの戦闘におけるものであるとする説がある[1]

アンドレイには後継者がいなかったため、当初は兄弟のレフの子のウラジーミルが相続したが[2][3]、後にボレスワフ(アンドレイの姉妹のマリヤ(ru)の子。父はマゾフシェ公トロイデン(ru))が公位に招かれた。

アンドレイの娘・アンナはリトアニアのリュバルタスに嫁いだ[4]

脚注

注釈

  1. ^ 「エウフェミア」はポーランド語: Eufemiaに拠る。ロシア語転写はエウフィミヤ(Евфимия)。
  2. ^ 「ポドリャシエ」はロシア語: Подляшьеからの転写による。現ポーランド、ベラルーシ国境沿いにあたる歴史的地域名であり、各国語表記はru:Подляшье等を参照されたし。

出典

  1. ^ Микола Голубець. Галицько-Волиньска держава // Велика історія України. — 1993.. — Т. 1.
  2. ^ Владимир Львович // ブロックハウス・エフロン百科事典 : в 86 т. (82 т. и 4 доп.). — СПб., 1890—1907.
  3. ^ Александр Широкорад. "Русь и Литва" // Галицкое Королевство. — Москва: "Вече", 2004. — С. 50, 52, 56-60, 83, 370.
  4. ^ Любарт Гедеминович // ХРОНОС
先代:
ユーリー
ハールィチ・ヴォルィーニ大公
1308年 - 1323年
次代:
ウラジーミル
ボレスワフ・ユーリー2世



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