西屯区
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地理
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歴史
西屯は元来平埔族拍宰海族(Pazehe)の居住地であった。伝承によれば1701年に王成楚が170人を率いて犁頭店(現在の南屯区 )よりこの地に移住し、水田を開墾したのが始まりと言われている。1716年には岸裡社の総土官であった阿莫が当時の諸羅県知県周鐘瑄に対し開墾の要望として「東至大山,西至沙轆地界大山,北至大溪,東南至阿里史,西南至梀加頭地」との文書を提出しており、文中の大姑婆が現在の西屯区上下石牌付近とされる。道光年間には集落が発展し街が形成され西大墩街と称されていた。また筏子渓河岸の馬龍潭(馬璘潭、馬鳴潭とも)は康熙末年には入植が進み余文儀が編纂した『台湾府志』によれば乾隆年間中期には馬龍潭と水崛頭の間に集落が形成されていたとの記録がある。これらの記録により道光年間,西大墩、水崛頭、馬龍潭、港尾、上石牌、下石牌などの地域が開発されたことを窺い知ることができる。道光年間には彰化より烏日、南屯、西屯を経て大雅に至る南北交通網、現在の光明路が形成され、光緒年間には東大墩北門より西大墩、大肚を経て沙鹿に至る現在の西屯路が整備され、台湾中部の商業の中心地として西屯が栄えていた。
清代には台湾県梀東下堡とされていた西屯だったが、1895年に日本による統治が始まると台中県西大墩区梀東下堡となった。1920年10月1日には西屯庄が設置され、台中州大屯郡の管轄となった。台湾の中華民国への編入後の1946年、台中県大屯区西屯郷と改編され、続いて1947年2月1日に台中市の拡大とともに台中市西屯区となり、現在に至っている。
行政区域
地区 | 里 |
---|---|
渓西 | 林厝里、永安里、福安里、福雅里、福林里、福瑞里、福聯里、福和里、福中里、福恩里、協和里 |
渓東 | 何南里、何成里、何明里、何厝里、何安里、何福里、何徳里、何仁里、何源里、恵来里、大福里、大鵬里、大河里、大石里、鵬程里、逢福里、逢甲里、上徳里、上安里、上石里、潮洋里、龍潭里、至善里、西安里、西平里、西墩里、港尾里、広福里 |
教育
区分 | 数 | 名称 |
---|---|---|
大学 | 3 | 東海大学 逢甲大学 僑光技術学院 |
高職 | - | - |
高中 | 2 | 台中市立文華高級中等学校 台中市立西苑高級中学 東海大学附属高級中等学校 |
国中 | 6 | 台中市立安和国民中学 台中市立至善国民中学 台中市立西苑高級中学付属国中部 台中市立漢口国民中学 台中市立中山国民中学 台中市立福科国民中学 |
国小 | 12 | 台中市西屯区永安国民小学 台中市西屯区西屯国民小学 台中市西屯区泰安国民小学 台中市西屯区大鵬国民小学 台中市西屯区協和国民小学 台中市西屯区大仁国民小学 台中市西屯区重慶国民小学 台中市西屯区何厝国民小学 台中市西屯区国安国民小学 台中市西屯区上石国民小学 台中市西屯区上安国民小学 台中市西屯区長安国民小学 |
特殊 | 1 | 台中市啓聡学校 |
固有名詞の分類
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