白神果春 白神果春の概要

白神果春

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/05 15:00 UTC 版)

人物

元は北面武士として皇室を守っていたが、室町時代永正6年(1509年)、足利第十代将軍義稙の命により備中に遣わされた親族の上野民部大輔信孝に伴ってこの地へ赴き、信孝の本城である下原郷の鬼邑山城と隣接する曾能郷の馬入堂山城に入り、曾能郷近郷を知行し、城下一帯を自らの生地名をとって嵯峨野と称した。[1]

また、天文9年(1540年)、石清水八幡宮をこの地へ勧請し、西園八幡宮と称した。[2]当宮は、元来は城や所領の守護神、また園庄(曾能郷)の産土神として祭られ、江戸期には岡田藩主伊東家の氏神として、毎月一回当宮へ詣でるのを例として世々藩主に尊崇され、明治に至るまで代々白神果春の子孫が宮司を勤めた。

参考文献

  • 永山卯三郎著、吉備郡史、玄石文庫
  • 真備町史、真備町(現倉敷市)発行

関連項目


  1. ^ 墓碑には「白神右京亮菅原朝臣果春君生於山城國嵯峨野為京都北面武士時天下噪擾備中國有塩冶尼子細川三好赤松等諸族兵争不熄永正六年足利義稙近侍二階堂上野伊勢諸将奉鎮撫命而来上野民部大輔居於原郷鬼邑山城時白神果春君與上野氏為親族従而来為苑郷馬場入堂山城主後有故住於本村字上之段為土豪天正四年六月十七日」とある。
  2. ^ 御神体の胎内銘は「天文九庚子年卯月吉日 敬白大願主 果春 成林坊 作者家久」とある。また当宮碑には「當社之由来以為記念云抑當社者天文九年四月大願主白神右京亮果春肇迎石清水八幡之霊 云々」とある。


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