水島地区 概要

水島地区

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/17 15:27 UTC 版)

概要

明治から大正にかけて行われた高梁川の改修工事により廃川となった東高梁川の河口部(連島の江長地区以南)とその南側に生まれた干拓・埋立造成地からなる歴史の新しい地区である。かつての河口部にあたるエリアには市街地、干拓・埋立地にあたるエリアには水島臨海工業地帯の中核となる地区(同A・B・D地区)が造成されている[1]

また、倉敷水島産業道路及び古城池線が地区内を縦横断し、倉敷の東西南北を結ぶ交通要衝の地でもある。商店街・住宅・官公庁(水島支所・公民館・児童館・消防署・警察署・郵便局)・病院・公園・公私立幼稚園・保育園などの公共施設が多数集中。さらに町内ごとに遊園地も設置されている[2]

歴史

1925年に高梁川の大改修が完了し、それにより生まれた東高梁川の河口廃川地には広大な土地が生まれた。さらにその沖合も干拓され土地を広げていった。それらの新開地には、1941年の三菱重工業の航空機の疎開工場を建設、そして1943年9月に三菱重工業航空機製作所岡山工場が建設され、倉敷駅から東高梁川廃川地を通り同工場へ至る臨港鉄道(現・水島臨海鉄道)を敷設、さらに飛行場や揚陸施設が造成された[3]

1945年の再三の空襲で工場や周辺は破壊され工場の機能停止に陥るが、戦後に三菱自動車工業水島機器製作所(現・水島製作所)として再建され、水島工業地の草分けとなった[4]。また旧製作所の跡地の一部では製塩業も行われ水島塩業ちう企業も建設された(のちに消滅)[5]

三菱重工業の建設により、周辺の河口廃川地には福利厚生施設などの企業関連施設も作られ厚生地帯とも称され、近隣には従業員を客層とした商店も立地するようになり、宅地も増加していく。

1946年から岡山県が主導し、連島・福田・本荘(児島)・乙島(玉島)の海岸・沖合一帯を干拓(一部埋立も行われた)する大事業が開始され、広大な陸地を造成した(戦時中に干拓されていた箇所もある)。一部では広域にわたって海底の土砂を掘り上げたので、大型船舶が自由に出入りする大規模な港湾(水島港)も建設された。干拓地はほぼ全面的に工業用地として払い下げ、1953年頃から有力企業が進出し始め、1955年より推進された工場誘致活動により企業が進出し、日本有数の工業地帯へと変貌した。その後も干拓・埋立は引き続き徐々に行われ区域を広げた[4]

水島港は、元は1941年の段階で建設が開始されていたが、空襲や敗戦の影響で中止となっていたものが、1948年に再度事業が開始されて完成したものである。1953年・1957年の2回にわたり拡張工事が行われ、1960年には玉島港を併合し水島港の玉島地区とし、さらに重要港湾としての指定を受ける。1967年には大型化の改良工事が完了、岡山県下最大の港湾となった。鉄鋼・輸送機械・化学薬品などをアジア・アメリカ・フランス・ベルギーなどへ輸出、原油・鉄鉱石・石炭・米・豆などを西アジア・南北アメリカ・アフリカ・オーストラリアなどから輸入している[3]

また河口廃川地は、三菱重工業進出時の関連施設(厚生地帯)や、それにあわせて立地した商店や宅地などがあったが、戦後になるとそれらを基盤にして本格的に市街地として計画的に街路が整備されるなどして発展し、宅地化・市街化が進行した。水島工業地帯の発展と共に人口が急激に増加、商店街も形成され百貨店や大型スーパーマーケットなども進出して活況を呈した[1]

工場の集積に伴い、大気や水質の汚染をはじめとする環境汚染が進行。周辺では多数の公害病患者が発生、また海洋汚染による漁業の衰退などが長年にわたり問題となった[4][3]

地名の由来

当地の名称の由来は水島灘である。

戦時中、東高梁川河口廃川地および干拓・埋立地に、ガス会社が設立された際「水島ガス」と社名を定めた。これは当時の横溝光暉岡山県知事が、将来的に新開地が開発されると周辺の地域名称が必要であることを考慮し、三宅千秋岡山県議会議員に地名選考を依頼し、同議員が福田出身で連島在住の画家・三宅蟻峯と協議し、新開地の元となった旧東高梁川が水島灘に注ぎ、また水島灘を干拓・埋立した地であることから「水島」の名を選定した。そしてその皮切りとして、また名称に対する世間の評判を試すためにガス会社の社名として使用した[5]

これに続く形で福田・連島両町の商工業者が、新開地に立地する三菱航空機製作所に物資供給を目的とする商業組合を組織し、同じく三宅議員に名称選定を依頼した。三宅議員は当時の岡山県の山口経済部長と協議し、前例に倣い「水島商業組合」と名称を定めた[5]

さらに、1943年には当地に立地していた三菱重工業航空機製作所岡山工場が同水島工場へ改称、次第に関連施設や関連企業にも水島の名が冠せられるようになる。その後、郵便局など周辺の施設・商店・事業所等にも水島の名を冠したものが増加し、いつしか新開地一帯の地域通称として水島と呼ばれるようになり、さらには工業地帯も同名称で呼ばれるようになったことで、より広範囲の人々に水島の名称が知られるようになった[5]

戦後、1951年に旧連島町内で区画整理事業が行われ、水島の名が住所表記として採用され、大字の一部その名を冠した。施設名や地域通称であった水島の名が、初めて行政上正式な地名となった。その後、1953年に福田・連島両町が旧倉敷市に編入すると、福田側にも水島を冠した住所表記がなされた[5]

新倉敷市発足から現在までの間に数度の地名変更が行われ現在に至っている。その過程で、市役所の水島支所が設置され、その管轄地域を広義の水島と呼ぶようになった[5]

水島灘の名称の由来は2説ある。現在の玉島南部にある山塊で元島嶼の柏島、あるいはその東側の乙島、もしくは両方一帯を指して古くは「水島」と呼んでいた。周辺を水島の海、海峡部を水島の瀬戸と呼んだ。これに由来するのが一つ目の説。源平の水島合戦はこの意味である。一方、もうひとつは現在の高梁川河口沖にある水島群島(上水島・下水島)に由来する説である。この群島の上水島には古くから山伏の伝承がある[5]

水島群島は現在水島地内に属するが、前述の通り水島の地名の由来としての直接的な由来ではない。


  1. ^ a b c d e 岡山県大百科事典編集委員会編集『岡山県大百科事典』(1979年)山陽新聞社
  2. ^ 倉敷市立水島小学校
  3. ^ a b c 下中直也 『日本歴史地名体系三四巻 岡山県の地名』(1981年)平凡社
  4. ^ a b c 巌津政右衛門 『岡山地名事典』(1974年)日本文教出版社
  5. ^ a b c d e f g h i j 岡山県編集発行『水島のあゆみ』(昭和46年)
  6. ^ 人口月報|倉敷市





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