レイフォース (イギリス軍)
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解隊
1941年7月末には、レイフォースが引き受けた各作戦がその戦力を著しく減少させており、状況を鑑みるに増援は行われそうになかった[40]。バルディア襲撃の際に露呈した作戦上の困難、中東の状況における戦略上の必要性の変化、また総司令部がコマンド部隊の概念を完全に採用するには至らなかったことが、部隊の応戦体制を削ぐ方向へ大きく寄与していた。結果として、レイフォースを解隊する決定がなされた[40][41]。決定を受けて人員の多くは前所属の連隊へ復帰し、他方で一部は中東地域への残留を選び、次いで後に設立された他の特殊部隊に参加した[40]。
レイコックは配下部隊の扱われ方に関する自らの懸念を陸軍省と協議するため、ロンドンへ向かった[42]。後に解隊について聞かされたイギリス首相サー・ウィンストン・チャーチルは――コマンド部隊の熱心な支持者であった――、戦域に残っていたコマンド部隊員で構成される中東コマンド部隊の編成を命じた[41][43]。イギリスから戻ったレイコックは、実際に中東コマンド部隊が設立されたものの、自らが指揮する者はごく少数であることを知った。当地の人員は6部隊に編成された[41]。当時はL分遣隊として知られていた初期の特殊空挺部隊(SAS)が第1・第2隊と称され[43][44]、解隊された第11(スコティッシュ)コマンド部隊からの60名が第3隊とされた。第51コマンド部隊の人員が第4・第5隊を編成し、特殊舟艇部隊(SBS)がロジャー・コートニーの指揮下で第6隊とされた[43]。しかしこのような名称は概して無視され、各人員は以前の名称を自ら名乗った[41]。
11月、トブルクで包囲下にある駐留部隊の救出を図る攻勢「クルセーダー作戦」の一環として、中東コマンド部隊の第3隊がリビアのエルヴィン・ロンメル司令部を襲撃してドイツ軍司令官を殺害する企ての「フリッパー作戦」に参画した[45]。この襲撃は、攻勢全体を支援するためにデイヴィッド・スターリングのL分遣隊とSBSとが参画し、ドイツ軍前線の後方へ侵入して後方地域に混乱を引き起こす、より大規模な作戦の一部であった[43]。しかし襲撃は失敗に終わり、2名のみが――その一人はレイコック自身であった――イギリス軍の前線へ戻りおおせた[45]。指揮官のジェフリー・キーズ中佐は、襲撃中の指揮統率と勇敢さを称えてヴィクトリア十字章を追叙された[46][47][注釈 3]。
この後も中東コマンド部隊は存在し続けたにせよ――チャーチルを懐柔する努力という側面が大きかった――、人員は概してより規模の大きな編成へと引き取られていった。彼らの多くは、チャーチルの承認を受けてスターリングが拡大していた特殊空挺部隊に加わった[50]。レイコックは准将に昇進し、チャールズ・ヘイドン准将に代わって中東総司令部特殊任務旅団の指揮を執った[51]。
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