リッカルド・ムーティ 幼少-青年時代~ロンドン時代

リッカルド・ムーティ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/29 16:34 UTC 版)

幼少-青年時代~ロンドン時代

当初ピアニストとして研鑽を積み、ロータに招かれて、彼が校長を務めるバーリ音楽院に進んだ。そこで音楽院オーケストラの公演があり、予定されていた先輩の指揮者が病気になり急遽欠席した。そこでロータはムーティを校長室に呼びつけ、代役をやるように指示した。しかしムーティは不安で一度は辞去したものの、簡単な拍子の振り方だけ教わって強引に任されてしまう[1]。結果としては素晴らしい出来になり、ムーティ本人も指揮に興味を持ち始める。これがきっかけでロータに恩を強く感じ、度々彼の曲を今でも取り上げている。勉強に打ち込むも生活が苦しく、アルバイトに明け暮れつつ苦学した。このとき妻であるクリスティーナ(演出家)と出会う[1]。その後グィード・カンテッリ指揮者コンクールで優勝を果たし、イタリア国内の主要楽団を指揮する。1969年にはフィレンツェ五月音楽祭歌劇場の音楽監督に抜擢され、長く関わっていく(現在も度々客演している)。

1971年、巨匠クレンペラーの後任としてニュー・フィルハーモニア管弦楽団(1977年以降は「フィルハーモニア管弦楽団」)の首席指揮者に就任して以来、ロンドンには長く関わっている。EMIへの録音もこの頃から始まっている。1979年には同楽団初代音楽監督に就任。その他ロンドン・フィルにも客演や録音を行っている。フィルハーモニア退任後も毎年のようにタクトを取るなど良好な関係を維持してきた。しかし一部メディアが反ムーティを掲げて過激な攻撃を行った。これに火がつき聴衆の一部も激化。2005年にはスカラ座共同参画でロイヤル・コヴェントガーデン歌劇場に初登場する予定であったが、演出家と激しく対立してキャンセルする(演出家はその後失踪した)。これによりメディアがムーティ攻撃を強め、翌年にフィルハーモニア管に登場するも、その後空白が生じた。2009年にはしばらくぶりの客演予定が立った。


  1. ^ a b c d e f ノーマン・レブレヒト『巨匠神話』河津一哉、横佩道彦・訳、文藝春秋、1996年
  2. ^ The Philadelphia Inquirer紙(米)、Il Tempo紙(伊)
  3. ^ "Dumbing down row at La Scala" the Guardian紙(英)2003年9月16日付記事。
  4. ^ Il Messaggero誌2009年3月20日号






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