バントゥー教育法
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抵抗運動と結果
バントゥー教育に失望した教師たちの間からは辞職するものも多くでた[16]。当時教職にあり、後に反アパルトヘイト活動家として大きな役割を果たすデズモンド・ツツもこの時職を辞している。また、アフリカ民族会議(ANC)は1955年から1956年にかけて小学生による学校のボイコットを行わせ、学校の授業を代替する「文化クラブ」を設置した[17][18]。これらのキャンペーンはかなりの成果をあげたが、最終的には資産の不足と、黒人の親たちからの支持の喪失によって挫折した。曲がりなりにも教育を受ける機会を提供し、「修了証書」を正式に発効するバントゥー学校へ子供を就学させることを選択する黒人の親が数多くいたため、ANCは運動への支持を維持することができなかった[19]。バントゥー教育法の施行当初、自身が教育を受けたことの無い黒人の親たちの中には、政府が教育制度を整備したことを好意的に受け取っていた者が少なくなかったことを示す記録が残されている[20]。ある女性教師は「(地域の人々は)バンツー語の使用によって勉強がやりやすくなることはいいことだと思っていたのです。」と証言している[20]。また、奴隷的教育か無教育かという究極の選択を迫られるなかで、「腐りきった教育もないよりはマシだ」と言う絶望的な感覚も存在した[18]。1956年末には主要な抵抗運動は終わり、結果的に南アフリカ政府は1960年代にはバントゥー教育制度を安定させることができた[21]。だが、社会学者のジョナサン・ヘイスロップは、大衆規模の教育制度の普及は政府の意図とは別に、1970年代の黒人の若者たちの政治化の土壌をも用意することになったと評している[21]。
- ^ a b トンプソン 1998, p. 344
- ^ a b c d e f ヘイスロップ 2004, p. 48
- ^ トンプソン 1998, pp. 304-306
- ^ 柿沼 1971, p. 88
- ^ トンプソン 1998, p. 291
- ^ ヘイスロップ 2004, p. 49
- ^ 柿沼 1971, pp. 91-92
- ^ a b 柿沼 1971, p. 93
- ^ a b トンプソン 1998, p. 343
- ^ 柿沼 1971, p. 95
- ^ ヘイスロップ 2004, p. 134
- ^ ヘイスロップ 2004, p. 135
- ^ a b c ヘイスロップ 2004, p. 137
- ^ ヘイスロップ 2004, pp. 137-138
- ^ a b ヘイスロップ 2004, pp. 147-149
- ^ ヘイスロップ 2004, p. 140
- ^ ヘイスロップ 2004, p. 152
- ^ a b 柿沼 1971, p. 111
- ^ ヘイスロップ 2004, p. 153
- ^ a b ヘイスロップ 2004, pp. 177-178
- ^ a b ヘイスロップ 2004, p. 178
- 1 バントゥー教育法とは
- 2 バントゥー教育法の概要
- 3 抵抗運動と結果
- 4 関連項目
- バントゥー教育法のページへのリンク