バディ・ホリー 1958年

バディ・ホリー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/07 10:24 UTC 版)

1958年

  • 1月25日、ボブ・シール、バディとノーマン・ペティに「ペギー・スー」のゴールド・ディスクを進呈。
  • 1月30日〜2月4日、ハワイ〜オーストラリア6日間のツアー。
  • 2月、イングランド・ツアー。25日間で50回のステージ。
  • 2月20日、LP「バディ・ホリー」発売。[5]

ボビー・ダーリン

Bobby Darin 1959

6月ブランズウィックから1枚のシングルがリリースされた。ザ・ディン・ドンズの「アーリー・イン・ザ・モーニング」。ディン・ドンズはアトランティック傘下アトコ・レーベル所属のボビー・ダーリンの変名。以前録音しながら未発売となっている自信作「スプリッシュ・スプラッシュ」のリリースを待たずにアトコとの契約満了を目前としたダーリンは次への保険の意味で変名を使いブランズウィックに「アーリー〜」を録音したのだ。これに気付いたアトコはブランズウィックに対しオリジナルマスターの譲渡を要求、翌7月「リンキー・ディングス」名でアトコから発売するという。どちらかと言えば非はブランズウィック側にあるのだがこれに同じデッカ傘下のコーラルが反応した。自社で制作したマスターをみすみす他社に奪われた挙句ヒットされるのを指をくわえて見ている手は無い、と[10]。プロモーションのためN.Yを訪れていたノーマン・ペティとバディにオリジナルの「アーリー〜」を聞かせ録音の同意を取ると翌日にはレコーディングの手配を完了、それはスタジオ、プロデューサー、アレンジ、バック・コーラスに至るまでダーリン版「アーリー〜」と全く同一の環境というもの。バディらとの交渉から48時間もたたずに録音された2曲は2週間後の7月5日にはレコード・ショップの店頭に並んでいた。2枚の「アーリー・イン・ザ・モーニング」は市場で対決、バディ最高32位、ダーリン24位とダーリン盤に軍配が上がった。図らずもボビー・ダーリンを巡る2社のつばぜり合いが生んだN.Y録音であった[4]

ラブロマンス

「アーリー・イン・ザ・モーニング」の録音を見学する一人の女性がいた。ブロードウェイの音楽出版社ピア・サザン・ミュージックの受付嬢 マリア・エレナ・サンティアゴ 。叔母プロヴィ・ガルシアは同社ラテンアメリカ音楽部門エグゼクティヴ。彼女は前日バラの花束と共にバデイ・ホリーからプロポーズを受けたばかりだった。二人の出会いは1957年8月(「ザットル・ビー・ザ・デイ」がNo.1ヒットになった時)バディがピア・サザンを訪問した時。8月15日ラボックのバディの自宅で挙式。ノーマン・ペティは女性ファンの動揺を考慮し二人の結婚を公表せず表向きマリアをクリケッツの秘書と紹介した[4]

バンド仲間、友情、賭け

Waylon Jennings and Buddy Holly in 1959

この年(1958年)バディが関係したシングルが3枚[注釈 20]7月ジェリー・アリソン「リアル・ワイルド・チャイルド」録音[注釈 21] 。クリケッツのドラム、ジェリーがヴォーカルをとりバディがリードギターを担当。コーラルからアイヴァン(ジェリーのミドルネーム)名義でリリース。9月30日ルー・ジョルダーノ(Lou Giordano )「ステイ・クロス・トゥ・ミー」録音[注釈 22]。バディ・ホリーとフィル・エヴァリーが共同の形で作曲、プロデュース、バックコーラスを担当。エヴァリー・ブラザースとの関係は1957年12月N.Yパラマウント劇場の出演がきっかけ。エヴァリーズはバディの楽曲に興味を示し録音を望んだがマネージャーと出版社エイカフ・ローズ・ミュージック[注釈 23]の強い拘束に阻まれ実現する事無く終わる。しかし二人の友情と才能がこのシングルを通じ実を結んだ。9月ウェイロン・ジェニングス「ウェン・シン・ストップス」録音[注釈 24]。1954年頃からラボックのラジオ局KLLLに頻繁に出入りするバディとDJジェニングスは旧知の仲。ミュージシャンに転向するジェニングスのシングル制作をバディがプロデュース、ノ・ヴァ・ジャック・スタジオにキング・カーティス(Ts)を呼んだ。12月17日KLLL局内である賭けが行われた。「30分以内に作曲出来るかどうか」というジェニングスの挑戦にバディは「ユー・アー・ザ・ワン」を書き上げこれに応えた。録音されたアセテート盤の中で局のオーナー、レイ・カービンとジェニングスが手拍子でバディを囃し立てている[4]

最後のセッション

Paul Anka 1961

10月21日ピディアン・テンプル・スタジオ[注釈 25]においてバディ・ホリー唯一となる弦樂団との共演によるステレオ録音が行われた。最後のシングル「イット・ダズント・マター・エニーモア」を含む4曲を録音、生前最後の公式録音となった。ディック・ジェイコブス[注釈 26]の回想。「夕方6時半頃バディが私のオフィスに来ました。9時に始まるセッションの編曲は出来上がっていたのですが彼は『ポール・アンカから素晴らしい曲をもらいました。今夜録音します。』と。急遽その「イット・ダズント・マター・エニーモア」という曲に取り組んだのですが私が出来た事と言えば簡単なストリングスのパートとユニゾンのピチカートのアレンジぐらい。ちょっとしたハプニングでしたが最高のレコードが出来ました」録音に立ち会ったノーマン・ペティはこう語る。「私は最初彼らがステレオで録音している事に気付きませんでした。彼らは4トラックのミキシングボードに全てのソースをモノラル入力していたのですがステージから離れた部屋で3トラックのマシンを使いステレオのミックスをしていました」[4]

マネーゲーム

Everly Brothers

ミュージシャンとしての成功、そして結婚。順風と思われたバディの周辺が急にざわつき始める。マリアはクリケッツのツアーに同行しメンバーの身の回りの世話をしながらコンサートの収益を集計した。しばらくするとマリアと叔母ガルシアはある事に気付く。コーラル、ブランズウィックから支払われるバディ&クリケッツのロイヤリティ(著作権使用料)をノーマン・ペティが自分の会社の口座に引き入れているらしい、と。それを知らされたバディはエヴァリー・ブラザースから紹介された弁護士ハロルド・オレンスタインを雇いペティと結んでいたマネージャー、プロデューサーとしての契約の解消とロイヤリティ回収に動く[5]

時を同じくしてもう一つの金銭トラブルが発生する。バディはN.Yのプロモーター、マニー・グリーンフィールドと「メデイア出演やコンサートを斡旋した場合その収益の5%を斡旋料として支払う」旨の約束を口頭で交わしていた。実際ディック・クラーク・ショーやイギリス・ツアーをブッキングしたグリーンフィールドに対しバディは約束通りの金額を支払ったがグリーンフィールドは「ブッカーとしてだけではなくマネージメントも行った」と主張、さらなる支払いを要求し訴訟を起こす。ニューヨーク法によれば「訴訟はニューヨーク州から州外に向けられたものであるため問題が解決するまで資産を凍結する」とした。これによりバディは必死に稼いだカネをどうする事も出来なくなった[5]

バディとノーマン・ペティの決別に対しクリケッツのメンバーが選んだ道はペティについていく事だった。バディを成功まで導いたペティ、アマチュア時代から苦楽を共にしてきたクリケッツの仲間たち。永遠に続くと思われた絆は脆くも崩れ去った。このトラブルに突き動かされるようにバディは最後のツアーへと向かう[注釈 27]

アパートメントテープ

12月5日自宅録音開始。結婚を機に移り住んだグリニッチビレッジのアパート[注釈 28]で作曲のアイデアやデモを新しく手に入れたギター[注釈 29]を弾きながらレコーダーに吹き込んだ。ノーマン・ペティの回想。「バディは自宅で録音するためのテープ・レコーダーを欲しがっていました。私が最新の機器を薦めると「いや、私が欲しいのは『ペギー・スー』を録音した、オクラホマ・シティで使ったのと同じもの。[注釈 30]」と言うので私はその時使用したポータブル・レコーダーを彼に譲りました」以下マリア談「バディはよく私に新しい曲の感想を聞きました。曲が出来ると私と二人でピアノがある私の叔母のアパートへ行き曲が正しく聞こえるかどうかの確認をしました。私の名前「マリア・エレナ」を曲名にしてもらいバディにスペイン語を教えながら一緒に歌った事がありますがその時のテープはもうどこかへ行ってしまったでしょう」これらの音源はバディの死後ノーマン・ペティの手によりバッキングを加えたオーバーダビング処理がなされ「ペギー・スー・ゴット・マリッド」「ラブ・イズ・ストレンジ」などがシングル化された[4]


注釈

  1. ^ 石油、酪農を主産業とする
  2. ^ 「Down the River Of Memories」を歌唱、賞金5ドルを得る
  3. ^ テープ・レコーダーの前身。ワイヤーに帯磁させ録音・再生を行う原理はテープと同じ
  4. ^ 1948年Hank Snowデビュー曲 「My Two-Timin 'Woman」
  5. ^ Jack Neal (1934〜2015) 1949年当時13歳のBuddyと出会う。1953年Buddy & Jackのコンビを組みKDAV「サンデー・パーティ」への出演、アセテート盤の制作を行う
  6. ^ この時期のステージではバディが一人でパフォーマンスする事があった
  7. ^ 翌15日同ステージにエルヴィス・プレスリー出演、バディ&ボブが前座
  8. ^ 一般に市販されるビニールレコードと素材が異なりアルミニウムの円盤にニトロセルロースラッカーをコーティングしたもの。プロユースの録音、放送での使用を目的とする。
  9. ^ このアセテート盤は現在所在不明。タイトルも分っていいない。
  10. ^ この地区は通称ミュージック・ロウと呼ばれナッシュビル音楽関係の主要なレーベル、出版社、スタジオが集中する
  11. ^ Jim Denny(1911〜1963)1946年WSMの局長に就任。1951年グランンド・オル・オープリーのゼネラルマネジャーに。1954年ウェッブ・ピアスと共同で音楽出版社シダー・ウッド・ミュージック設立。1966年演奏者以外の人物として最初のカントリー・ミュージックの殿堂入り。
  12. ^ Paul Cohen (1908〜1970)シカゴ生まれ。1920年代後半コロンビアの元でレコード・ビジネスに参入。1934年デッカ・レコードの設立に伴い入社、1935年シンシナティへ移住、デッカ中西部支店長に就任。1958年デッカ退社後自身のレーベルToddを立ち上げ、1964年Kappのカントリー部門責任者に。1970年死去。葬儀の際ミュージック・ロウは故人の追悼のため封鎖された。
  13. ^ 作曲者にノーマン・ペティも名を連ねるが原文に基づいた。ペティのこの作曲に対する関与は懐疑的な意見が多い。
  14. ^ ジェリー・アリソンは後のインタビューで「その時は誰がブラッドリーで誰がコーエンなのか分りませんでした」と答えている。表現が曖昧なのはそのため。
  15. ^ 人々をハッピーにさせる音を奏でる、という意味が込められていた
  16. ^ Cindy Louは ホリーの姪の名前
  17. ^ Peggy Sue Gerron(1940〜2018)は当時のジェリー・アリソンのガールフレンド。後二人は結婚する。
  18. ^ エレクトリック・ギターに複数のピック・アップがマウントされる場合、リズム/ソロの切り替えスイッチがボディ・トップに搭載される
  19. ^ Dean Barlow & the Crickets 1953年MGMから「Milk and Gin」でデビュー、同年Jay-Deeへ移籍。1954年Beaconリリース「Be Faithful」がヒット。1955年メイン・ヴォーカルDean Barlowがソロに転向。
  20. ^ バディのキャリア中、他名義のレコード制作はこの3枚のみ
  21. ^ Ivan 「Real Wild Child /Oh You Beautiful Doll」Coral 9-62017 1958年7月11日発売
  22. ^ Lou Giordano 「Stay Close To Me /Don't Cha Know 」Brunswick 9-551151959年2月発売
  23. ^ Acuff-Rose Music 1942年Roy Acuff、Fred Roseの共同によりテネシー州ナッシュビルに設立された音楽出版社。作曲家に対する誠意をモットーとし、契約や法律に無知な作家に対する不当な搾取が横行していた当時の音楽ビジネス界に一石を投じる。1954年フレッド・ローズ死去、息子ウェズリーが社長に就任。
  24. ^ Waylon Jennings 「Jole Blon /When Sin Stops 」Brunswick 9-55130 1959年5月発売
  25. ^ ピディアン・テンプルは1927年友愛団体「ナイツ・オブ・ピティアス」の集会場所としてN.Yに建造されたビルディング。1941年からデッカがスタジオとして所有。広いフロアと高い天井を持つ講堂をスタジオに改造したため反響の強いライブな環境を特徴とした。
  26. ^ Dick Jacobs(1928〜1988)バンドリーダー、作曲家、アレンジャー、A&Rマン。1950代から60年代にかけ主にデッカ系列の録音に携わった。「Main Title」「Molly-O」 (共に1956年)のヒット曲を持つ。 Buddy Hollyの他 Jackie Wilson 、Bobby Darin の録音をサポート。 この日(10月21日)自己のオーケストラを率いプロデュース、編曲を担当した。
  27. ^ この項正確な日時は不明。前後関係から1958年暮れの出来事と思われる。関係者のほとんどが故人となった現在、特定の人物を中傷する目的は無い。個々の視点により見解は分かれる。All Musicではロイヤリティに関し「当時の音楽界でよく行われた悪しき慣習」としつつペティによるバディの成功への貢献を最大限に評価している。
  28. ^ N.Yグリニッチビレッジ11番街5丁目。英語圏での「アパート」は日本におけるマンション規模の住宅にあたる。
  29. ^ ギブソン社製アコースティック・ギターJ-200
  30. ^ 1957年9月オクラホマで録音されたのは「メイビー・ベイビー」のためペティの記憶違いと思われるが原文をそのまま引用した
  31. ^ Tommy Allsup (1931〜2017) オクラホマ生まれ。1958年7月バディ・ホリーの録音に参加しキャリアをスタート。1960年代以降セッシュン・ミュージシャンとしてRonnie Smith, Roy Orbison, Willie Nelsonらの録音に参加。The Ventures 「Guitar Twist」の作曲者としても知られる。
  32. ^ Carl Bunch (1939〜2011) テキサス州ビッグスプリング生まれ。キャリア初期「Ronnie Smith and the Poor Boys」に在籍。1956年ノ・ヴァ・ジャック・スタジオ録音の際バディと知己を得る。1960年代以降Bob Osburn バンドを経てHank Williams Jr、Roy Orbisonらと共演。晩年バディ・ホリーのメモリアル式典に出席した際自ら「凍傷したクリケット」とサインした。
  33. ^ Ritchie Valens, J.P. “The Big Bopper”, Dion and the Belmonts, Frankie Sardo
  34. ^ 1933年アイオワ州クリアレイクに開業した音楽施設。2,100の客席と広いダンスフロアを持つ。2009年ロックの殿堂指定歴史的建造物。1979年から毎年2月に追悼コンサートが催されている。
  35. ^ これに対し当局は不慮の事故に際し親族への連絡を優先にし、それまでは実名報道を控える方針を決める。
  36. ^ 煩雑を避ける為「Buddy Holly」「The Crickets」名義を区別せず記載した。4曲入りEP、再発盤、1970年以降のシングルは割愛。バディの死後Coral、Libertyからリリースされた(バディ不在の)クリケッツのシングルは除外した。
  37. ^ 1976年7月1日ポール・マッカトニーはバディ・ホリーの楽曲著作権を買い取る
  38. ^ 原則としてリリース国を表記。複数国発売の場合ミュージシャンの出身国を優先した。
  39. ^ Phil Ochsはアメリカ出身。カーネギーホールのライブ盤はカナダA&Mからリリースされた。
  40. ^ 『Gunfight at Carnegie Holl』収録
  41. ^ 『Oh Buddy Holly』収録
  42. ^ 『Rubettes』収録
  43. ^ 『Step Two』収録
  44. ^ 『Are You Ready For The Country』収録
  45. ^ エディ・コクランはアメリカ出身。本トラックは1959年録音、当時未発表となっていたが1966年英リバティーからシングルカットされた。
  46. ^ 1955年4月23日アデア・ミュージックでセールスマン、クライド・ハンキンズからレス・ポールを下取りにしストラトキャスターを305ドルで購入
  47. ^ ギターのネックには弦の張力による反りが生じるため指板とネックの間にトラスロッド(金属製の棒)を仕込みヘッドもしくはエンド側から調整を行う
  48. ^ FAOSA 他の愛用者にはロイ・オービソンフィデル・カストロなどが知られる

出典

  1. ^ a b c d Eder, Bruce. Buddy Holly | Biography & History - オールミュージック. 2021年7月22日閲覧。
  2. ^ Tobler, John (1979). The Buddy Holly Story. Beaufort Books. ISBN 0-8596-5036-7 
  3. ^ Rolling Stone. “100 Greatest Singers: Buddy Holly”. 2013年5月26日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab 「THE BUDDY HOLLY STORY」John Beecher/Malcolm Jones共著1979年MCA原盤 LP
  5. ^ a b c d e f g h JACK HODJIN BOOKS「The True King Buddy Holly」2017年
  6. ^ Elvis Presley & Buddy Holly …Contrasts and Comparisons
  7. ^ a b c d 45cat.com Buddy Holly - Discography
  8. ^ Buddy Holly and the Crickets
  9. ^ a b musicvf.com/ Buddy Holly Top Songs
  10. ^ Discovermusic.jp/バディ・ホリー VS ボビー・ダーリン「Early In The Morning」
  11. ^ beatlesmagazineuk.com/the influence of buddy holly on the beatles
  12. ^ John Lennon on Buddy Holly
  13. ^ ザ・ローリング・ストーンズ全米最初のシングル「Not Fade Away」はボ・ディドリーを取り入れたバディ・ホリーのカヴァー
  14. ^ コオロギから生まれたカブトムシ
  15. ^ Buddy Holly remembered NME
  16. ^ Duluth Armory Buddy Holly Performance Inspired Bob Dylan
  17. ^ a b BUDDY HOLLY A COLLECTORS GUIDE Bill Griggs & Jim Black共著 RED WAX PUBLISHING 1983
  18. ^ a b 45cat
  19. ^ buddy the musical.com
  20. ^ Buddy Holly’s Les Paul
  21. ^ Buddy Holly, The Crickets Guitarist Gear
  22. ^ Buddy Holly’s glasses, lost since his death in 1959, are found in Mason City, Iowa
  23. ^ The Strange Case of Buddy Holly's Final Pair of Glasses






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