スマラン事件 経過

スマラン事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/13 08:02 UTC 版)

経過

10月12日、インドネシア独立派の群衆がスマランの日本軍駐屯地を訪れ、再び武器の引き渡しを求めたが、城戸少佐は拒絶した。14日早朝には武装したインドネシア人の一団が日本軍駐屯地を訪れ、再び武器引き渡しを要求したが、これも日本側は拒絶した。

この間、スマランやマゲラン周辺の治安は急速に悪化した。10月12日には建設中のスマラン製鉄所にいた日本人作業員や軍人ら339人が、人民治安団(BKR)指揮下の現地人警察隊により拘束され、市内の施設に監禁された[7]。同月13日には市内各地で、市民や赤十字関係者などの外国人・混血人の拘束が始まった。日本の民間人や、市内に下宿していた日本軍人も拘束の対象となった。日本人を含め約2000人の外国人がブル女子刑務所に監禁された[8]。マゲラン駐屯日本軍も包囲され、司令官の中村少将が応戦を禁じたため、武器を強奪され、中部防衛隊司令部は全員拉致された[9]。また、マゲラン憲兵隊の10人は殺害された。

拘束を免れたスマランの日本人市民は、日本軍駐屯地に避難した。10月14日夜には、監禁されていたスマラン製鉄所関係者が、見張りの現地人警官を撲殺して脱出した。この際に、日本側も13名が射殺された[7]

10月14日夜、外国人の拘束・殺害、マゲラン司令部の制圧などを知った城戸少佐は、武力行使を決断した。15日午前3時30分を期して、日本軍部隊は、スマラン市内のインドネシア側武装勢力に対して攻撃を開始した。5日間に渡って続いた戦闘では、装備及び練度に勝る日本軍がインドネシア側を圧倒し、19日までに市内は日本軍の制圧下となった[9]。この間、18日(戦史叢書によれば19日)にはイギリス軍がスマランに上陸したが、治安任務の引き継ぎは行われず、戦闘にも加わらなかった[7]

10月19日、日本軍とインドネシア人民治安団の間で停戦協定が結ばれた。


  1. ^ a b 防衛庁防衛研修所戦史室、457-458頁。
  2. ^ a b 秦ほか、271-273頁、「東南アジア独立戦争にかりだされた日本軍」(喜多義人担当)。
  3. ^ 加藤、232頁。
  4. ^ 加藤、235頁。
  5. ^ a b 加藤、233頁。
  6. ^ 加藤、236頁。
  7. ^ a b c d e 秦ほか、263-266頁、「スマラン事件」(小座野八光担当)。
  8. ^ 加藤、234頁。
  9. ^ a b 防衛庁防衛研修所戦史室、458頁。
  10. ^ イ・ワヤン・バドリカ、292-293頁。
  11. ^ 防衛庁防衛研修所戦史室、459頁。
  12. ^ 防衛庁防衛研修所戦史室、461頁。
  13. ^ 加藤、237頁。





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