1945-1948年
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「全米女子プロ野球リーグ」の記事における「1945-1948年」の解説
リグレーから経営を譲渡されたマイヤーホフは管理会社を設立して、リーグの運営にあたった。理事長には後にアメリカ野球殿堂入りする名選手であったマックス・キャリーが就任し、キャリーは1949年までリーグの理事長職にあった。この年は第二次大戦が佳境を迎えていたこともあり、チームは軍のキャンプなどを廻るエキシビションゲームを行ったり、負傷した兵士を見舞うなど軍をサポートする活動を行っていた。2球団の本拠地を移したことなどもあり、この年リーグは45万人を動員した。 戦争終結後、各チームの下に14歳以上のメンバーによるジュニアリーグが組織され、シカゴには4チームからなるマイナー組織が作られるなど、リーグは拡充した。チームの春季トレーニングの場所はアメリカ国内にとどまらず、ハバナやキューバまで遠征することもあった。リーグは1946年に8チーム、1948年シーズンは2地区制の10チームと拡張を続け、1948年の入場者数は91万人とピークに達した。
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